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自己責任論

自己責任ばかりが叫ばれるのも窮屈だけど、最低限の自己責任も果たせないのはどうなのよ。

自己責任にはいろんな意味があると思うけど、

自立した一人の人間として自活すること

というのがまずあると思う。自己責任でなんとかならないことは、社会全体でカバーするべきだけど、まず前提としてその社会を支える無数の自己責任を行う主体が必要だ。

自己責任を否定する論調は、多くの大多数が日々行っている小さな自己責任をも同時に否定しているように感じられることがある。もちろん、"行き過ぎた"自己責任を批判しているだけであって、単純に自己責任を否定しているわけではないと僕は思う。が、単純に個人と国家を切り離し、「個人を守れない、個人に自己責任を強いる政府・国家はダメだ」という意見には賛同できない。政府がダメなのは、すなわち個人がダメなのだろう。ダメな個人(小さな自己責任の集合が支える政府サービスにフリーライドする個人)が増えるから、政府がだめになるのだろう。政府がこうあるべきだ、という論があるなら、当然その基礎として、個人がどうあるべきかは避けられないし、ちゃんと明確にしておく必要がある。「じゃぁ、個人はどう政府(だけでなく、広く共同体)と向き合えばいいのか」

結論を先取りするなら、最低限の自己責任、公共への奉仕はやはり大事だ。古きよき(?)時代風に言うなら、"善"とか"徳"とか。アリストテレス的な意味での徳を積む、それが賞賛され、またそれが徳へのインセンティブとなる社会が前提でないと、いかに巧緻なマクロ政策も無意味だ。そういったインセンティブを分析・検証・設計するのが究極的には経済学のコアだと思う。

僕は個人的に"(手段としての)新旧の自由主義経済学はそんなに間違いではない"と思う。社会分析のツールとしてはコレがないと始まらないとも思う。けど、単なるツールを超えて、"自由な社会は無条件に正しい"的な議論を後押しして、共同体を支える規範・道徳を押し流しちゃったのは、反省すべき点だと感じる。手段としての経済学を目的化し、社会に押し付けちゃったのではないかなぁ…

前例や慣習、法律から出発する観念的な規範・道徳論は、経済学的基礎がないから実用性に欠ける、単なる言葉遊びに過ぎない。でも、個人をただのインプット・アウトプットするブラックボックスのように扱う哲学のない経済学もあまりにも強暴すぎる。アダム・スミスをはじめ、偉大な経済学者はみんな古きよき時代の哲学者の顔も持っていた。

昨今の派遣村問題とか、「新しい責任の時代」を目の当たりして。とりとめがないけど。

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