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なにが"正しい"かだなんて。"どうするべきか"だなんて。

昔(大学生時代)、高校時代の友人と酒をのんだ。

たぶん日本でワールドカップがやっている時の話で、次の日は早稲田の建築学科(Shuさんが在籍していた)でみんな集まってプロジェクタを設置して、対トルコ戦をみたような、みなかったような、そんな記憶がある。ちなみに、ロシア戦は京都のバイト先で皿を洗いながら、その次の試合は東京のどこぞにあるスポーツ・パブで観戦した。

まぁ、そんなことはどうでもいい。

そいつは東大文Ⅰ→法学部に進んだのだけど、その日は確かそいつの下宿の本棚に並んでいたK・ポパーをネタに話をしていた気がする。『科学的発見の論理』だか、『開かれた世界~』だかは忘れた。その話も尽きて、「どうよ法学部?」という話に移った。するとやつは、「面白いよ。論理的だし」

そのとき、なんか「ダメだなぁ…」と思った。法律はそもそも論理的に作ってあるもので、論理的じゃなかったらむしろ存在価値ないじゃん。日頃、(最低限のものを除いて)法律とか規則なんてクソくらえ!と思ってる僕なんかには言われたくないだろうので、「んなもん当たり前やんけ」と言ったのとどめたけど、どうも法学部生のそういうところは気に入らなかった。

昨日のエントリーの流れで話をするけど、

1.(慣習から自然発生したコアな)法律はみんなに支持されているから効力をもつ → 2.
2.法律は(刑罰などにより)強制的な効力を持つが故、みんなを支配する → 1.

つまり、法律の起源は慣習からであるが、いまではそれから多少の独立性をもった自己完結的な・それ自体で閉じた枠組みとして存在している。そして、自己を権威づけるために、条文が条文の正当性を保証し合って、論理の網、論理の塔を築き上げている。

だから、論理的であること自体が法の存在理由でもある。あやふやな慣習に寄るのではなく、明確な法に支配されることで、ヒトはより多くの可能性にアクセスできる。

けれど、前提として、法は慣習をもとにしている。慣習はひとびとのニーズと支持に寄っている。だから、法の支配がいかに有用で、いかに人々の生活を安定させ、多くのアクセス≒豊かさを提供しようとも、法がいかに正義でも、ある一定の限界がある。
ひとびと、市民のニーズと支持がなければ、法はクソにすぎない。

ここで"市民"とは、自由な主体であり、自分なりに公共に認められる善を達成しようとする主体のことをいっている。"市民"にとって、いかに法であれ"悪法も法であり、従わなければならない"という論理には、屈伏することができない。悪法は善では決してないからである。

そういえば、ポパーはこんなことを言っていたような気がする(例によって、本が手元にない…)。「民主主義は、(正しい方策は見出せないかもしれないが、)間違いを指摘できる点では有用だ」ポパーの思想は"反証主義"と呼ばれる。より多くの反証(間違ってるんじゃね?という意見といえばいいのかなぁ)を説明しうる、信頼性強度の高い理論ほど"正しい"。そして、理論は常に"テストに開かれている"(公開して反論を受け入れられる状態にすること)べきであるという。その意味では民主主義は理想的といえるのかもね。もちろん、法も常に世論によってテストされなければならないと思う。いかに論理的で、格好良くても、それ自体が正しい理由にはならない。

まぁ、なんでこんな話を書いたかというと、こんな記事を目にしたからだ。

2005年、スペインにて娘を強姦した男に対して母親が復讐するという事件が起こりました。ガソリンをかけられて焼かれた犯人の男は、その傷がもとで病院で死亡しました。

もちろんその後、母親は逮捕され裁判が行われましたが、彼女が初めて出廷した日、 群衆は「よくやった!」と拍手喝采で母親を出迎えました。また、娘が強姦されて 以来精神病を患っていたことが考慮され、罪には問われない可能性が高いそうです。

痛いニュース(ノ∀`):娘を強姦した男に母親が復讐。ガソリンをかけて焼き殺す

復讐は法によって否定されている。けれど、感情としては支持したい。その感情は、"悪を憎む"のが共同体にとっての"善"である以上、否定しつくすことは不可能だ。

だから、

3 : すずめちゃん(山形県):2009/02/26(木) 09:17:24.15 ID:yXJMNK14
( ;∀;) イイハナシダナー

というのが間違いであると同時に、

この母親もきちんと裁かれるべきだろう。「よくやった」「当然」とか言う人間は「まともな司法制度はいらない」と主張していること同じだってわかってるのか?

はてなブックマーク – 痛いニュース(ノ∀`):娘を強姦した男に母親が復讐。ガソリンをかけて焼き殺す

という意見もどーなんかぁ、法を支持するあまり、その支持基盤である"悪を憎む"気持ちを蔑にしているんでは、と思う。結局、復讐は「タテマエではダメなこと、ホンネでは共感する」という立場に陥ってしまう。

僕の場合だったら、たとえば妹がレイプされたとかだったら相手をぶっ殺しに行くだろうし、自分がホラれたら…なんて想像したらホッペタがプルプルゾワゾワしてしまう。どっちにしろ、タダで済ます気はない。

でも、"市民"としては、ホンネを押し殺すべきだ。それが”市民”であるための条件だ。たぶん、そういうことなんだろうと思う。その葛藤に立ち向かわないといけないんだろうな。

  • 個人は、ホンネを押し殺し、タテマエに殉じる。
    じゃないと、"放縦"に陥り制度が崩壊する。
  • 制度は、タテマエを堅持しつつ、個人の持つホンネを汲む。
    じゃないと、個人の支持が得られず崩壊する。

けど、「葛藤を全員に強いるのは酷だ」という意見もあるだろう。"自由の刑に処せられている"のでは、真の自由とも呼べない気がする。強制されるものが何一つとしてないのも、理想ではある。そこらへんの解決もつけなきゃ…

とりあえず。

まだまだ、自分の意見としては熟成していないけど、今日のところはここまで。
きっちりかっちりした制度だけが能じゃない、という意味で昔のエントリーのことを思い出したので、リンクだけ張っておく。

あいまいな処罰基準の有用性についての若干の諸考察 – www.be-styles.jp <http://www.be-styles.jp/archives/947>

今読めば穴だらけだけど(読まなくても穴があるが)、今ならもう少しまともなことが書けるかもしれないと思っている…かも。基本的には、中学時代から読んでた東洋思想的なものがなんか染み付いてる気もするけど、それに関してもいつか何か書けたらなぁ…と思う。

だんだんウチのブログ、面倒くさいことになってきた。

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