- 2009-04-04 (土) 13:30
- Opinion
ある日、ダモクレスがディオニソスに対して王の境遇の良さを讃えた。すると後日、ダモクレスは王から豪華な宴の招待を受けた。宴は豪華を極めたものであったが、席上でダモクレスがふと頭上を見上げると、天井から糸で剣がぶら下がっていた。その糸はいつ切れてもおかしくない細さで、王はこれをもって王は常に命の危険に晒されている境遇にあることをダモクレスに示そうとしたのである。
天井から吊るされた剣は、「為政者の責務」を象徴している。王は秩序を維持するために強大な権力を与えられる。しかし、その使い方を間違えれば、当然その報いを受けるだろう。権力のおこぼれとして豪華な宴を楽しむことはできる。しかし、それ相応の責務を果たしているか、それが自分が治めている国民に、自国を虎視眈々と狙う隣国の王に常に問われている。
話は変わって裁判員制度の話だ。
法律に疎い市民に、司法のまねごとをさせるのは酷だ。ときには死刑判決すら出さなければならないこともあるわけで、そのような重い負担を裁判員になる国民に負わせるのはその重圧によって肉体的・精神的に苦痛を与える
という反論を目にすることが多い。とくにマスコミなどはそのような論調をよく目にする。これはこれで一理あると思う。できれば、制度ができる前に一大キャンペーンを張って国民に是非を問うべきだった。
けれど、今の日本は民主主義国家だ。民主主義とは、端的にいえば「国民一人一人が王である」仕組みであり、権利と「ダモクレスの剣」を分かち合う仕組みのことだ。
その視点を持てば、「他人に刑罰を与える苦痛」は民主主義国家の成員として当然引き受けなければならないものではないのだろうか。「一部の頭のいい人に任せていればいい」という従来のやり方も、別にかまわない。けれど、そうやって宴を楽しめば、いつかその代償を払うことになる。たとえば、現実と乖離した法令・判例を基準に納得いかない刑罰を科されたりね。
そもそも裁判員制度は、「国民も積極参加という代償を払う代わりに、司法をもっと国民のものへ、開かれたものへ改革していこう」という動きの一環だったのではないか。だから、某省の某氏は「さいばんインコ」などという謎キャラと掲げて、徹夜の連続で認知活動を行っていたはずなんだ。それをいまさら、ダメ制度だというのではムゴすぎる。じあぁ、今までの方がいいというのか。
裁判員制度は実質的には国民に課された新しい「労役」だ。
法律も多少勉強しなければならないだろうし、仕事を休んで(復帰したらさぞかし仕事がたまっていることだろう)、いやな話を聞いて、逆恨み覚悟で判決出して…めんどくさいことこの上ない。
でも、そんなことは事前に分かっていたはずで、いまさら言うのはおかしい。いやなら国民投票で王政復古でもして、すべてを「卓越した個人」に任せてプラトン的な国家を作ってしまえば、解決ができる話だ。選挙に行く面倒もないし、政治なんて考えなくても幸せに生きていけるだろう。
でも、どうせやらなきゃいけないこととして決まってしまった。
それならば、本来の趣旨を活かして、せめて自分の労力が世の中のハピネスに繋がるように頑張っていった方が気分も楽なんじゃないか。

