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DQNの再生産過程。

「とりかえしつかないことの第一歩 名付ければその名になるおまえ」と詠んだのは俵万智さんである。とりかえしのつかない第一歩を踏み出したようなネーミングが氾濫していると感じているのは私だけではないようだ。

「週刊文春」には、「先生が名前を呼べない子供たち」という特集が組まれていた。一度では、読めない名前が増えてきた。その名付けの変化は、 ここ10年劇的だと言うのだ。

痛いニュース(ノ∀`):「子供の名前に和源(わーげん)、天使(みかえる)…とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために」…中村修治氏

和源→わーげんくん、天使→みかえるくん、英雄→ひいろくん、強運→らっきいくん、沙風→さあふぁくん、愛声→あのんちゃん、絆→はあとちゃん、樹里亜菜→じゅりあなちゃん、 楓→はいじちゃん、奏人→タクト、光舞→テルマ、月→ライト、獅人→レオト、大虎→タイガ、星穏→シオン、遥空→ハルク、琉煌→ルキヤ、怜音→レイン、瑠楓→ルカ、望来→ミライ、伶音→レノン、來夢→ラム、心暖→シノン、煌羅→キラ、流楽→るんら、愛々→なな、桜心→ももね、詩映愛→しえら、洛→りいち、美心菜→みふぁな、翔飛→しょう、肇陽→はっぴ、綺麗麗→きらら、宙大→ゆうだい

もはや漢字検定1級に出題される勢いの難易度。頭痛くなってきたwww


週刊文春の記事には、この状況を危惧する加藤卓也弁護士のコメントが記載されている。 『名前は、その人物が社会で認識されるための符牒です。他人が読めない名前には 社会性がありません』

そうですね。読めない名前には社会性がありません。

ゆとり教育もそうだけど、「個性」は必ずしもそれだけで成り立つだけでないことが忘れ去られているように思う。一部の人は不本意と思うかもしれないけれど、「個性」(の一部)は「社会」とのかかわりの中で初めて発揮される。社会と切り離された個性なんてありえない。そもそも、社会とかかわりなく・それ単独で存在できるならば、名前なんてつけなくていい。名前とは差異性だから。単独で・何との関わりも持たずに成り立つなら、そもそも差異なんて要らない。その名前は誰からも呼ばれない。

他人との差異性を保ちつつ、社会との関わりを断ち切ってしまわない程度の差異性にとどめておく。それが"いい名前"ってことなんだろうな。僕だって差異性(≒個性)こそが価値だと思うこともあるけれど、それは自分に向けられるべきであって、子供に背負わせるものではないよな。

ちなみに、わしに子供ができたら、意味のある名前も大事だけど、2・3音節で省略してあだ名を付けやすい名前にしてあげたいかな。僕は結構あだ名の付けにくい子だったのでw
たぶん、"としふるひと"にでも、名づけを頼むと思う。

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