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自己責任論。というか、"自分に責任をくれ"論。

とあるブログで見かけたところによると、"知的な人たちや良識のある人たち"の間では、個人の貧困の問題が「自己責任」であるという議論は一蹴されているらしい。文章を読んでいくと、"知的な人たちや良識のある人たち"≒左派の人たちであるらしいが、思わず鼻で笑ってしまったわ。

個人の貧困の問題が「自己責任」でないというのならば、何のせいだというのだ。おそらく「社会」の責任だというのだろうが、その「社会」(≒「国家」「政府」でもいいだろう)は、何が支えているというのだろう。結局、

「社会」は無数の「自己責任」が支えているのではないか?

どこからか貧困を救うコストを負担してくれる白馬の王子様が現れるとでも?

みんななけなしの給料から税金を負担し、それが政府を成り立たせ、結果的に現実的にいくばくかの貧困を是正している。なのに、その基本である「自己責任」を否定してしまったら、だれが代わりに貧困を解決する?"知的な人たちや良識のある人たち"が自分の生活を削って貧困問題に取り組んでくれるのか?(中にはそういうスゴい人もいるけどさ)

「自己責任」論が"現実社会ではまだまだ根強い"のは、「自己責任」を果たして「社会」を支えているということに対して、「社会」を構成する大多数(主に中産階級)がリアリティを持っているからだ。そして、「自己責任」を果たしていること≒「社会」に参加していることが誇りにもなっているからだ。「自分で決めたことだからしょうがない」のではなく、「自分で決めた」からこそ、結果をどうにかこうにか甘受できる。「自分は、自分で、自分の力で選び取った未来を今生きている」と信じたいわけだ。共和主義でいうところの"善"として、僕はこういった人を支持したい。「自己責任」は権利だ。

また、そういった人々にとって、"資本主義は自由をもたらすのではなく人々の自由を抑圧する"ものでは決してない。むしろ、ポジティブに受け止め、資本主義が礎とするモナド的な合理的経済人と自由市場のモデルを武器にする。一度儲けた人間が、その地位を守るために規制を設けることに反対する。ヒトは合理的で自由であれば、もっと豊かになれる。そういったナイーブな経済観には必ずしも同意しないけど、僕はこっちのほうにむしろ同情する。そして、市場に参加できないほど貧しい人には、さっさとベーシックインカムや負の所得税(これは"新自由主義経済学者"のアイデアだ!)といったセーフティーネットを整えるべきだ。

僕が個人的に左派の人に感じる不満は、観念が過ぎて社会を支えるパワーに対するリアリティを失っていることだ。老子は「大道廃れて仁義あり」といった。いうなれば、"ヤクザが仁義を盛んに言うのはそこに仁義が足りないだけ"というわけで、サヨクが闘争を唱えるのは本当の闘争に縁遠いところにすんでいるからだ。貧困にあえぐ人はもちろん、「自己責任」と日夜戦っている層よりまだ恵まれているのだ。でなければ、「自己責任」を否定する"知的な人たちや良識のある人たち"の衣を身にまとってるだけではないのか?

僕はそういうのを嫌悪する。

機会であれ結果であれ、完全な平等など達成し得ない。
自分を救えるのは自分しかいない。市場を通じて自分の可能性を延長したり、自分の力の一部を共同体へ捧げてリスクをヘッジすることはできるが、それに完全には頼れない。
結局みんな自分が大事で、地球の裏側で今餓死しようとしてる人間のことなんて気にかけない。

でも、それでいいと思う。

「自己責任」という義務感を養う。赤の他人への「共感」を延長していく。そして、ともに「社会」を支える。「社会」ではあらゆる不確実性が共有され、長い時間では特定の個人にそれが偏ることがない。格差はあっても、手元にそれと戦う自由は保障されている。

そんな風にしていくしかないんじゃないかな。ゆっくりじわじわ。

#まぁ、でも、「自己責任」なんてものは他人に押し付けるべきではないのは確か。そこは心に留めておかないとなぁ

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