- 2009-07-24 (金) 0:10
- 独り言
23.10.08 – Fear Two – Commiting a Crime Photo by vixrichardson
昔はみんな尊敬する仲間だった。…しかし三十路を迎えてから、「既婚、正社員」組と「独身、非正規雇用」組にはっきりと別れた。そして、後者の言動が明らかにヤバくなった。
…最近、彼らの言動が、どんどんリアル犯罪者に近づいている。
金持ち、公務員、政治家、医者、弁護士、教育者は全て加害者。自分は被害者。 自分は被害者だから、加害者の奴らに対して多少の嫌がらせをしても許されるはずだ、という思想。
…正直、いつ彼らが事件を起こして逮捕されてもおかしくないと思う。…やはり、正社員と非正社員は別の文化で、分かり合うことは出来ないのだろうか。
「…」部分は適宜省略。
負け組だから荒んでいくのか、所詮そんな心根だから負けるのか。
実際のところそれら2つは互いにフィードバック関係にあって、どちらがどちらの原因であり結果であるかなんかはっきりとは決めることができない。負けるから荒むのであり、荒むからさらに負けるのだ。
ただ、明確なことがひとつある。
負け組になってしまうのは運とか制度とか、自分ではどうにでもできない外生的な要因であるのに対し、荒んでしまったり犯罪に走ってしまうのは自分の心の問題だということだ。
外の要因だって少しずつ改善していければいいけれど、すぐにどうにかできるわけではない。けれど、自分がどうあるか、どういたいかについては、自分で決める自由(自己決定権)があるんじゃないかな。そりゃツラいだろうけれど、折れてしまえばこのネガティブ・フィードバックからは絶対に抜け出せなくなってしまう。誰かがなんとかしてくれない限り。
その点、これを書いた人間もツメたい。
友達だったら、そのフィードバックの罠から「負け組」どもを助ける努力をしてあげるべきじゃないか。
それを、「文化」が違うと境界線を引き、「やはり」分かり合えないと嘆いてみるフリはする。本当は、"異文化の人間とはやはり分かり合えない"という諦念が結論として先にあり、縁起でもないモノとして忌避しているだけなんじゃないか。そんなにおいを感じる。
自分はたまたま物好きな会社に拾われ、物好きな女の子と知り合って結婚できたけれど、全て運が良かっただけであって、特別何がに優れていたわけではない。
と当人は書く。本当にそう思うのならば、その幸運はたまたまであり、いつ不幸が襲うかという自覚があるはずだと思う。ならば、その不幸に備えて、不幸に陥った時に助けてくれるセーフティーネット、友情という緩衝材(バッファー)を育んでおくべきだ。今日助ければ、明日助けてくれるかもしれない(少なくとも、今日助けもしない癖に、明日の助けを期待はできない)。本当ににっちもさっちもいかなくなったとき、助けてくれるのなんて家族か友人しかいないじゃない。
生まれて死ぬまで勝ち続けるなんて、よっぽどの幸運に恵まれていない限りありえない。だから、みんな寄り添ってリスクをヘッジする(不幸をともに分かちあう)。そのリスク分散システムの一つの形が、友情なんだと思う。それをないがしろにする人間は、今度ネガティブ・フィードバックの罠に落ちた時、「負け組」に固定されてしまうだろう。
(友情にはそれ以上の意味もあると思うケド、利己的な個人を前提としても友情は自己組織化されうる)

