- 2009-09-15 (火) 3:56
- Study
[メモ] ボワギルベールの世界 の続き。
彼はフランスの農業生産能力はフル活用されていない(過少生産論)と主張した。富裕の連鎖に目をとられるあまり、その基礎たる自然の連鎖がないがしろにされている。(彼の議論を発展させた重農主義経済学に寄れば、価値は"自然の連鎖"からしか発生しない。)
なんとかグラフで説明できないかなぁ…と思ってたんだけど、やっぱり初級ミクロなこの図が一番なのかな…ぶっちゃけ、作ってみたけどグラフにする意味は少なかった。
- 価格 ― 暗黙に完全競争を仮定。生産の内在的条件(天候・土地)ではなく、外在的条件(市場での価格、消費≒(有効)需要)の概念に注目したのが新しい
- 費用逓増を(勝手に)仮定
- 連続的影響 ― ワルラス的な無時間・全部相互依存な体系ではない。グラフに書くのはちと無理があるが…
ギワボルベールは、穀物価格P の安定性を問題にしていた。もしかりに、フランス王国が効率よく穀物を生産した場合の生産量をQとする。しかし、残念ながら今の王国ではそれよりも少ない Q’ でしか生産されていない。つまり、過少生産状態なのだ。
価格 P(Qにおける価格、直線の傾き)ならば、農業従事者はコストを十分に支払ったうえで十分な利益 R を得ることができる。しかし、穀物生産を犠牲にしてまでも奢侈品の生産を保護するコルベルティズムと、所得に対して逆進的な税(儲かりすぎると税金を多く取られるのでそこそこしか生産しない)が、生産を Q’ へ価格を P’ へ押し下げてしまう。
価格が高くなりすぎるのもよくない。(当時の)諸財の価格は穀物価格(絶対必需品の価格)を基本としているので、高すぎる穀物価格は職人の賃金を押し上げる。が、彼らは労賃の上昇には賛同しても、労賃の引き下げには決して応じない(賃金の下方硬直性)なので、結果的に翌年以降の穀物価格を"相対的に"引き下げる。(比例価格の概念)
低価ゆえに生産費すら補填されない。――このことは、交換の「正義のルール」を破り、自然の循環を断ち切ってしまう。ひいては、富の連鎖にも影響を与えるだろう。(→ ケネーの「良価」の概念)
では、安定した穀物生産 Q を達成するにはどうすればよいだろうか。
国内の制度はもちろん、自由な貿易が併せて必要だ。作りすぎれば輸出すればよいし、不作のときは輸入を期待すればよい。価格ギャップはそのまま需給ギャップを表しているのではなく、拡大されて反映されている。余った時は必要以上に買いたたかれで、足りない時はパニックで必要以上に価格が上昇する。海外市場と自由に結びつくことで、"需要を拡大"できれば、新しい需給バランスによって穀物価格を"押し上げ"、また、"安定させる"ことを期待できる。経済的自由は、目指すべき規範であるのと同時に差し迫った必要でもあった。
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ここまで言ってなんだけど、ギワボルベールは決して明確にこのように述べたわけではない。制度悪を排して、「自然の働き」「自然だけが作りうる自然的秩序(*)」だけが、適正利益を生む穀物の生産量を決定し、均衡価格を導き出すことを"漠然と"述べたに過ぎない。
各自の技能や職業に応じて、あらゆる種類の仕事や商業とくに農業を導くさまざまな登場人物あるいは演技者の間には、自然だけが作りうる必然的秩序がある。それは決して権力のなしうるところではない。
自然の働きに任せる(on lessie faire la nature)限り、すなわち自然に自由を与え、誰であれ自然を保護し暴力を排除する目的以外にはそれに介入しないが義理、このような秩序が維持されるのである
(*ルネッサンスの標語は『自然に還れ!』(Jean-Jacques Rousseau)だったのが思い起こされる。自然とは、今風に言えば権力・作為に寄らない"自生的秩序"のことか)
けれど、消費が導く「富裕の連鎖」(⇒カンティヨン)、生産費を補てんできる適正な価格の存在(⇒ケネー)、つまり"自然価格"を想定しそれを実現すべきとするアプローチ(⇒スミス)といったアイデアは、後々の経済学者に受け継がれた。
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