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悪人でも守りたくなるルールを設計する

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「囚人のジレンマ」は2者間の選択肢の均衡が、必ずしも最適解にならないという現象である。なぜ、こうした事が起きるのかと言えば、お互いの利益だけを最優先にするために起こる矛盾なのだ。つまり、「自分の利益」を追求するあまり、「木を見て森を見ず」状態になってしまい、みすみす得られたはずの利益を逃してしまうということだ。これは大きな機会損失である。

誠 Biz.ID:最強フレームワーカーへの道:「勝てないゲーム」なら「ルール」を変えよう――脱「囚人のジレンマ」

別にここまではOK。でも、つぎはダウトだと思うケド。

この“機会損失”をなくすには、全体にとっての最適解つまり「会社にとって何がベストか?」を関係者全員のルールとすることである。つまり、このゲームのルールを変更しなければ、いつまでもこの機会損失は続くことになるのだ。

それは規範的解決に過ぎず、"ルールを変更した"とは言えない。

"ルール"を変えるというのは、ここで言う利得関数自体を書き換える行為だ。

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まぁ、とりあえずジレンマが起こらないように書き換えればよい(図のように書き換えるのは無理な話だけど)。具体的には、

  • インセンティブ条項を設ける: がんばる=がんばらない と給料をある程度連動させる。(がんばった際の利得を引き上げる)
  • モニタリングの強化: サボったらそれなりの罰を加える。サボり監視を強化する。(がんばらない場合の利得を引き下げる)

ということが一般的に行われている。または、最初は安くしか雇えないけれど、他の企業・業種でも役に立つ資格や経験を得られるというのならば、それを潜在的な利得とみなしてくれる労働者もいるかもしれない。このように、みんなに協力したほうが得だと思わせる(実際にそう設計する)のが、ゲーム論的に正しい方法だろう。

それに引き替え、"「会社にとって何がベストか?」を関係者全員のルールとする"は規範的な解決に過ぎない。

規範的というのは、ルールを無理やり内面化させて、個々の道徳・倫理に訴えかける方法をさしている。それでは所詮、個人個人の在り方に成果が依存せざるを得ない。誰か一人が「俺はイヤだ」といえば、一気に皆がそれにならってもとのナッシュ均衡へ逆戻りしてしまう。

たとえば、「二酸化炭素の排出をがんばっておさえましょー」というより、「二酸化炭素排出を減らした人は得をし、逆の人は損をする」といった"排出権取引"のような仕組みの方が、ゲーム理論・経済学的には正解と言えるだろう。前者では善人しかキマリを守らないが、後者では悪人でも進んでキマリを守るからだ。

無理やりキマリを守らせるのではなく、
守った方が自分のためになるキマリを設計する。

だいたい口で言ってみんなが言うことを聞く&問題が解決するなら、わざわざこんな議論をする必要はないよね。問題は、利得関数(ゲームの得点)なんだ。

きっとこのコラムの著者は、平素から持論として"「自分のために」から「全体のために」"という考えをもっていたのだろう(でも、それは「小さな社会」の論理で、ひいては全体主義につながりやすい考えだ)。だから、生悟り&早とちりの罠にはまってしまったのだ。(編集者はよく原稿を読んで指摘すべきだった!)

こういうことは僕も含めて、日常、よくおこりうる。ちょっと気をつけなければいけないことだ。

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