- 2009-10-03 (土) 17:01
- ぽえむ
友愛の淵源は、クーデンホフ・カレルギー伯(汎ヨーロッパ運動主催者)の友愛革命を原点とし、その目的は人類の人格の尊厳を基調としての相互尊重、相互理解、相互扶助であり、人道主義、人格主義、協力主義、そして騎士道、武士道までも包含した謂わば紳士と淑女の人間関係の涵養であり、その核心は母性愛を根源とした人間や自然に優しい世界の醸成であります。
鳩山首相の「友愛」という概念は分かりにくい。
なんとなく"いいモノ"であるのは感じるのだけど。
Yahoo! 辞書によると、友愛とは以下のような意味だ。
ゆう‐あい〔イウ‐〕【友愛】
兄弟間の情愛。また、友人に対する親しみの情。友情。友誼(ゆうぎ)。「―の精神」
これはフランス語の fraternité (英: fraternity)から来ており、意味としては
fraternity
━━ n. 兄弟の間柄[情愛]; 友愛団体; 同業[好]者仲間; 〔米〕 男子学生の同好会((cf. sorority)).
というものであるらしい。
けれど、この愛も所詮…といってはなんだけど、「小さな社会」の論理に過ぎない。「小さな社会」とは、家族・ムラ・会社・国家・地球といった組織の一員としての"一蓮托生性"や"運命共同体性"を強調し、同調圧力によってバラバラになりがちな個人を団結せしめようという考え方のことを言う[1] 。
家族愛、兄弟愛、友人愛、同志愛は、それぞれお互いに家族、兄弟、友人、同志と認め合っている間柄でしか成り立たない。これらの愛は決して悪いものではなく、素晴らしいものだけど、普遍的なモノとはなりえない。「小さな社会」の愛は、いつの時代もその愛のスコープをどこに置くのか―家族か、兄妹か、友人か、同志か、国家か、汎(アジア|ヨーロッパ|…etc)国家共同体か、世界か―が常に問題だった。
孔子の「仁」
たとえば、古代中国の思想にその対立の源流を求めてみよう。
孔子において、愛は直接的には語られていないけれども、ヒントとなる言葉は残している。それは、

だ。これは「礼記」に記された言葉で、まず自分を正し、家族を治め、国、天下へと波及させていくという意味。孔子の最も大切にした「仁」がそもそも二人の間の愛を指したように、この言葉にはまずは身近なところから共感を育んでいこうという姿勢が見られる。隣の人も愛せないヒトが、天下を愛せようか。これは、イエス・キリストも言っていたことだし、マザー・テレサ[2] も言ったことで、保守的・現実的な人の思想は3,000年間変わらないことであるらしい。
墨子と「兼愛」
これを「偏愛」であると批判したのが、墨子だ。彼は、「偏愛」は差別を生み、「公利」(現代風に言うなら、"社会的厚生"とでもいおうか)を損なうと主張した。そして、人を平等に愛すること「兼愛」を唱えた。現代左派のお手本のような人ですな。
墨子はその理念に従い、兼愛を破壊する戦争行為に対する処罰(punishment)を正当化する「非攻」の精神を掲げ、攻撃を受けた城には必ず赴き守城を引き受け、一度たりとも敗れることがなかった。3代目鉅子の孟勝に至っては、城が破れると、墨子教団の400人とともに集団自決を果たしたという。自己犠牲を強いてでも、皆がそうあるべきだということを身をもって示した。
確かに「偏愛」は、差別を生む。現に、友愛を掲げる組織、フリーメイソンにしろ何にしろ、すべてが秘密結社的で、自らが引いた境界の内側に対しては愛があるけれど、外に対しては攻撃的・排他的であるのを見れば明らかだろう。
では、「兼愛」で行くか?…それはすべての人が、それに同意する必要があり、裏切りを許さないという問題がある。結局、「兼愛」とは世界がひとつの"運命共同体"意識を持つように強制することだからだ。それは結局、"自由"を損なうのではないか?"博愛"を掲げた左派が結局、"連帯と闘争"に酔ってしまったように、本来の目的を失って迷走するのがオチではないのだろうか。
愛のスコープ
「偏愛」と「兼愛」、結局はどちらも根は一緒の思想なのだ。
1対1の愛からゆっくり始めるか、いきなり全世界への平等な愛から始めるか、その違いにすぎず、単純化すれば、「小さな社会」の愛をどこまで拡大できるか、という問題に過ぎない。
では、鳩山首相の「友愛」はどのスコープをターゲットにした「愛」なのだろう?
世界?「世界一家、人間皆兄弟」なのであり、「宇宙船地球号」の同じ乗組員仲間なのだから、同志愛の精神でお互いを尊重しあい結束しようというのだろうか。
とりあえず、今のところの僕としては、変に穿った見方をせず、戯言に乗ってやろうか!という変な上から目線な考えがむくむくと湧いてきている。どうせなら、世界中の攻撃を受けている国に軍隊を送って、「非攻」の精神も体現しよう。徹底的にやって、玉砕するならそれはそれでいいんじゃないかな。
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補論 ― もう一つの、愛(?)
孔子と墨子を挙げて、適当に話をしたけれども、最古のネットワーク哲学者・老子ならばこの問題をどう解決するだろう…と想像してみるのも面白い。『老子』には愛という言葉は記されていなかったように思うが、問われれば彼ならきっと、「無愛」を唱えるだろう。
「無愛」とは、愛さないことではない。無を愛することだ。有ではなく。
ヒトそのものを愛するのではなく、ヒトとふれあって愛が生まれる、その関係と奇跡自体に目を向けて、愛してみよう[3] 。
ヒトへの深い愛ではなく、ヒトとヒトの繋がりを、広く愛そう。深い愛は"依存"に陥るけれど、浅く広い愛は"自立"と自由につながる。
そもそも、「大道廃れて仁義あり」。
愛、愛、と五月蠅い人間には、かえって愛などないのだ。毎日「愛している」と言わなければならない関係が、愛に満ちていると言えるだろうか[4] 。ヒトと対して自然と好ましいとの想いがわき出てくることが愛であり、愛のある人は他人に対してよりそういった想いの強いヒト、他人に対してオープンである人のことを言うのではないだろうか。つまり、家族・組織・国家などという枠組みなど無視して心を開けるヒト、「大きな社会」に身をゆだねて不安にならないヒトのことだ。
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個人的には、そういうヒトになりたいと願っている。けれど、これは「小さな社会」を乱す考え方でもあるので、反発も呼ぶだろうなぁーとかなんとか、思うのですよ。
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