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[メモ] 資本主義と、量化・機能化。

散在した需要がある程度まで集中すると、それをあてにした供給が興る。
逆もまたしかりで、
散在した供給がある程度まで集中すると、それをあてにした需要が喚起される。

中世の都市の発達はこの典型かもしれない。品物が豊富だからヒトは集まるし、ヒトが集まるからそれを当て込んで商人も集まる。現代で言えば、Amazon.com がロングテールの需要をうまくかき集めてスタートアップでも集客を成功させた。何でもそろってるからヒトは来るし、ヒトが来るから規模を拡大してよりレパートリーを増やせる。

個別的・一時的取り引きでは、"欲望の二重の一致"[1] が必要だ。貨幣はそれを円滑化するための道具だけれども、それがあれば解決かと言われれば、決してそうではない。需要と供給、双方の集約もまた必要条件なのだ。そして、一度需給が集約されると、それらはカネと動機さえあれば常にアクセスできるモノとみなされるようになる。僕はこれをもって"市場(シジョウ)の成立"とみなしたい。

市場では、売り手と買い手の存在がある程度まで"アタリマエ"に存在するとみなされる。そこでは、商品も同じく"アタリマエ"のモノとみなされる。実際にしっかりと手に入れる以前に、当然手に入るものと事前に計算される。そうなれば、手に入る前から次の製品段階への原材料としてあてにすることも可能になるだろう。よって、市場における商品は、それが最終需要品であるとは限らなくなる。

売り手と買い手が十分にいて、しかも双方がアテにしあう"ゆるい信頼関係"(=市場)が存在するならば、売り手と買い手はお互いがお互いを機能化(関数化: functionalize ?)する。

売り手: 買い手=f(商品)=貨幣、買い手: 売り手=g(貨幣)=商品

と見なしあうだろう。需要と供給は"量として"集計され、商品一単位の平均的な質がマクロな集計量から算出され、平準化される。つまり、市場では売り手と買い手が機能化されると同時に、商品は"量化(quantificate)"される。

たとえば、"労働力市場"では、1時間の労働力に支払われるべき貨幣と、1時間の労働力が平均的に実現しうるとみなされる付加価値が計算され、売り手と買い手はそれに従うように要請される [2][3] 。

機能化と量化で単純化された世界「大きな社会」では、さまざまな産業・専門的個人が"社会的分業"を行える半面、「小さな社会」で権威と同朋意識で守られていた個々の価値・個性が、個人単位に粉砕され[4] 、代替可能な機能と量に還元され、失われる[5] 。そして、個人はインプットに対するアウトプットのみが計られる。いわゆる、"疎外"だ。

これを非人間的なシステムだと非難するのは簡単。けれど、資本主義では"機能"が幾重にも連なり、重なり合い、巨大なネットワークをなして、僕たちの可能性を爆発的に広げてきた。それを否定してしまえば、僕たちは市場社会以前の可能性にしかアクセスできなくなってしまう。…が、こうした負の部分を無視するのもどうかと思うわけです。

  1. ジェボンズ Double Coincidences of Wants (*)
  2. 単純に割ればいいのかという問題もあるが。たとえば、フルタイム労働と数時間のみのテンポラリ労働は同じ単価でいいのだろうか…?今の日本では同じく扱われているが。 (*)
  3. ココに至って初めて、経済学の数理化も可能になった (*)
  4. マルクスは労働市場に投げ出された労働者を確かに"自由だ"と言っていた (*)
  5. 個の価値は集団によって担保されていたという事実がココで明らかになる (*)

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