- 2009-10-16 (金) 3:41
- 独り言
昨日書き忘れたのは、”可能性(≒潜在能力)”は基礎的なモノから発展的なモノまで重層的に積み上げられているという事だった。
服がなければ外を歩けず、寝床がなければ明日働くこともできないように、基礎的なモノなくしてより発展的なモノを得ることはできない。往々にして貧しい人が豊かになれない理由は、より基礎的なモノにアクセスできないという点にある。
豊かなヒトの多くは能力と豊富な人脈を持っており、その多くは学歴に負っており、それを得るには頭脳もさることながら、さまざまな運、高校・大学へ行くための原資が家庭にあることといった、より基礎的な"可能性"が実現されやすいことが必要条件になる。たとえば、もっとも基礎的な教育原資という"可能性"が欠けたヒトは、代わりにより多くの頭脳、より多くの運が必要になるだろう。
つまりここで、昨日論じた"個人的要因"と"社会的要因"のベクトルに加え、"基礎的な可能性"と"発展的な可能性"のベクトルも考慮に入れて、より大きな"可能性(潜在能力)"を得られる社会をデザインする必要性が明らかになったと思う。
それをまとめたのが以下の図だ。
"可能性"には大まかにみて4つのドメインがある[1] 。
- "古典的保守主義"の領域: 家族・ムラなどにおける個人的可能性実現能力のしつけや教育。家父長制的な介入が正当化される。
- "小さな政府"の領域: "古典的保守主義"の領域で、長年鍛えられ・蓄積された善き慣習の制度化。秩序の維持、自然権の保護。
- "大きな政府"の領域: "小さな政府"の領域を拡大して、最低限度得られる"可能性"の平等と拡大を担う。リベラリズムのドメイン。
- "経済的自由主義"の領域: 自由な個人による、さらに大きな"可能性"の開拓を肯定。リバタリアニズムのドメイン。
そして、それらは下から上へ積みあがりつつ、左右で互いに連関状態にもある。と同時に、より高次なドメインほど垂直的・水平的な緊張関係をもっている。たとえば、"大きな政府"は"経済的自由主義"と緊張関係にある。前者は、後者を「伝統の破壊」「人間性の喪失」「節度に欠けた貪欲」「格差の拡大」「経済の不安定性」などの原因と見なし、規制やコントロールが必要だと考えている。が、後者は前者の行為を「自由の侵犯」「行き過ぎた介入主義」「共産主義・社会的主義」「経済的停滞」と見なし、自らを前者を支える原資の提供者と自負し、それに見合わぬ待遇しか受けないことに反発する。こうしてみると、思想的には図の対角線上は相性が良いように見える…がそれぞれは互いに否定すると成り立たない、積木のような関係にある。
思想のドメインを明確にして、整理することには大きな意味があると思う。どれか一つの思想に依ることの危うさを再認識できるし、一度複雑な事象を単純化して視座を固定化することができる。
たとえば、僕が最近興味を持つ共和主義は、ドメイン1とドメイン2の相互作用により、基礎的な"可能性"を充実させるとともに、ドメイン3の「権力の肥大化」側面を重視してドメイン4へ漸進的進歩を目指す、以下の図のようにとらえられるだろう。
逆に言えば、共和主義は回顧的・原点回帰的な指向を持つけれど、近代的な議論に関してはナイーブなモノの見方しか持っていないかもしれない(…がそれについては、重要な文献に当たっている最中なので)。
また、リベラリズム的な考えは、右下から左上への対角線を重視して、"経済自由主義"(≒資本主義、グローバリズム)と対抗しようという以下の図のように、僕にはとらえられる。
しかし、"古典的保守主義者"("経済自由主義"に同調的なネオコンも含め)はぬるま湯的保障・理性的演繹的精神が古い伝統と必ずしも相性がいいとは思っていない(個人が本来持つサバイバビリティを損なうかもしれない!)ので、「こっちくんな」という思いがあり、この点ではむしろ"個人的要因"≒"自己責任論"を重視する垂直的な思想の同盟(というか軽い仲間意識)があるように思えるのだ。
# 最後の方は戯言。
- 用語には自信がない。より良いものがあればそれを採用したい (*)
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