結局のところ、生活基盤の安定性は有形無形の"資産(ストック)"の大きさに依存しており、資産Sの形成には、収入Yと支出Cの能力に依存している。そしてこれらは、社会的環境と個人的能力の二つに依存する。
たとえば、上の式において 所得Y は基本的に個人の能力に依存するけれど、上限と下限および限界収益は社会的な規範に大きな影響を受けている。また、消費C は衣食住にかかわる基本財的な部分は社会的に決定された物価水準に、娯楽や趣味・教育などに関わる投資は個人の意思・節制・展望に大きく左右される。
いくら社会保障を手厚くしても、パチンコやフーゾクに所得のほとんどを使ってしまう脆弱な意志しかもたない個人が貧困を脱するのは困難だ。善意あふれるヒトが、毎日浮浪者に炊き出しを行っても、受け取る本人に貧困から脱する意思がなければ、100年同じことを続けるハメになる。逆に、社会的な環境が悪すぎて個人の能力で何とかできる部分が非常に少ない場合は、個人の節制による資産形成は難しいわけで、炊き出しを受ける浮浪者がみな、意志と能力に欠けるということでは決してない。
一般的に、この二つのグループを見分けるのは難しい……が、意志のあるヒトは施しを受けることに躊躇する傾向がある[1] ので、どちらかと言えば個人的能力に欠けた人が多いだろうと予想はできる。なので、貧困層への直接的な支援には、同時に個人能力を伸ばす教育もともに施す必要がある。そして、社会的に制約されているが意志と能力に自負を持つヒトには直接的な支援が及びにくいことを、もっと重要視すべきだ [2] 。
それはともかく。
一般的に、個人の("運"を含めた)能力pはそれぞれだけれど、マクロ的にみた社会的環境s*はすべてのヒトに平等だ[3] 。基本的に、能力の高い人はより高い資産を形成する。そしてまた、所得の一部が資産Sにより増加するなら、能力の低い人との格差は加速度的に増大していく。戦略的・相互フィードバック的要素を除外しても、このように格差の拡大は止めようがない。
ところで、よく「金持ちは貧乏人を助けるためにカネを出して当然」という態度をとる人がいるが、それはよくない。自分の能力に由来する⊿Sの部分を否定するならば、それは所有権の否定で、その態度は自分にも返ってくるものだと知るべきだ。
ただし、社会的環境が所得や資産に対して中立的であるとは限らない。もし、社会的環境が、所得・資産に対して逆進的であれば、是正しなければならない。そして、社会的環境は、所得・資産に由来する"権力"によって、とかく逆進的でありやすい性質を持っている。
この点については、社会的環境の多くを非人格的な”システム”に還元してしまうやり方[4] に、僕はシンパシーを抱いている。ヒトは群れると、悪意が善意を凌駕する[5] 。新自由主義はこうした見方に基づき、無人格的な"システム"で置換できる社会的環境は"システム"に置き換え、富を持つ人が恣意的な権力も同時に持つという事態を極力少なくしようという発想を持っている。"自動販売機はネコババしない"という発想とでも言おうか。
しかし、「新自由主義は格差を助長する」というモノの見方が成されることは依然多い。けれど、それはむしろ資本主義一般の性質であって、断ち切るには資本主義をやめるしかない。そして実際にそれを捨てた壮大な社会的人体実験、ヒトの群れにおける善意の凌駕を信じる"社会的""共産的"なやり方は、結局のところ独裁と政治的腐敗を生んで終わったというのが歴史の実際なのだ。
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ただし、設定した無人格的システム(ルール)を考慮に入れた戦略的行動を考えると、新自由主義的な方法が万全であるともいえない。ルールはそれを標的にした行動を生む。それが犯罪であればルールはそれを防ぐために精緻化されるけれども、精緻化されればされるほど、その網をかいくぐる行動も巧妙になる。結局、シンプル・コンパクトで透明な無機的ルールは、肥大化し、崩壊する。ルールをコンパクトに維持しようとすると、今度はルールの執行・運用コストが高まる。同じくルールは形骸化して、崩壊する。
今回の金融危機のように、手口が巧妙過ぎて事前的には防ぎがたく、かといって事後的にも十分な処罰・報復が成されないと、ルールが産んできた安心乗数は逆波及して基礎的な部分まで破壊してしまう。
これに関連して、処罰(punishment)と規範(norm)、ルールの関係については、まただいぶあとに話せるかなとか思う。
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