- 2010-01-13 (水) 0:10
- 独り言
どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの人格と財産を守り、保護できる結合[1] の形式を見出すことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人に結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けねばならない…これが根本的な問題であり、これを解決するのが社会契約である。
人々が繋がって、なおかつ互いを侵さないようにするためには、ある種の契約が必要だ。欧米人がやたら握手をするのは、もとはと言えば「私は武器なんて持ってませんよ☆」ということを示すためだったのだそうだ。
「あなたはわたしを殺しませんよね?」「モノを盗らないですよね?」「約束はちゃんと守りますよね?」「暴力なんて止めときましょうね?」
そういった当然のこととしての約束事の積み重ねが社会契約であり、その確認作業を"儀礼"にまで昇華したのが握手なんだろうね。
ルソーは社会契約について、さらにこうも言う、
われわれ各人は、われわれの"すべての"人格とすべての力を、一般意思の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとるものである。
社会契約にあたり、モノを盗ったり犯したり殺したりといった「自然な自由」は返上される。その代り、しんどい時に助け合ったり、より良い暮らしのために共同のインフラを整えたり、商業を通じて社会的厚生を増したりといった、より一層の可能性―自由―を手に入れる。
だから、ルソーは死刑を肯定する。
犯罪者に宣告される死刑についても同じように考えることができる。…社会的な権利を侵害する悪人はすべて、その犯罪のために、祖国のへの反逆者となり、裏切るものとなるのである。その人は法を犯すことで、祖国の一員であることをやめたのであり、祖国に戦争を仕掛けたことになるのである。
社会契約を結んだ市民は、自分の命すらもはや所有はしない。それは"一般意思"の所有であり、それによって他人の「自然な自由」により害されることから守られ、自分の生命を守るために汲々とする不自由から解放されている。死刑に値する犯罪、日本では唯一殺人だけがそれに相当するが、それを侵すものは「自然な自由」を行使したがゆえに、契約からは離反し、その敵として殺されるのだ。
なぜ、殺人はいけないか。「なぜ殺人はいけないのか?」と問う自由すら、社会契約によって守られているからだ。社会契約がなければ、「なぜ殺…」とまで言ったところでイキナリぶっ殺されるかもしれない。
僕たちはルールによって生かしてもらってるのだから、ルールは破らないようにしよう。
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今読んでる最中だけど、自分とはしっくりこないかなぁー。
そもそも、「多数決の原理は一度全会一致で承認されて初めて効力を持つ」というけれど、生まれついて新たに国家に参加する人、遊牧民、移民なんかはどうなるのかな。わしは生まれてこの方、社会契約を承認した覚えはない(反対もしないけれど)のだけれど。そこんとこはまだよくわかんないな。
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