- 2010-05-09 (日) 3:59
- 独り言
自由には2種類あるとおもう。「~からの自由」「~への自由」という話もあるけれど今回は違う。「個人に帰属する自由」と「延長された自由」だ。
「個人に帰属する自由」と「延長された自由」
「個人に帰属する自由」とは、純粋に"自分"(個人)が、"自分"(個人)だけで実現しうる自由[1] のこと。
「延長された自由」とは、"他人"と関わることで実現しうる自由のこと。「延長された自由」は、「個人に帰属する自由」との交換で得られる。
たとえば、"他人を殺す自由があるか"という問題について。「個人に帰属する自由」の観点で言えば、殺人を行う自由はたしかにある。しかし、その一方で「延長された自由」を失うだろう。生きていればこそ、「自由」を交換できる。
殺人という極端な例を出さなくても、自分本位に「個人に帰属する自由」を行使すれば、それはたちまち「延長された自由」が制限される結果に陥るだろう。
「自由」の交換
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「延長された自由」の豊富さは、「自由」の交換がどれだけうまく行えるかにかかっている。
個人で達成できる「自由」には、おのずから限度がある。しかし、「延長された自由」は無限大だ。無論、交換の原資となる「個人に帰属する自由」の多寡と、関わる人の多さとその多様性[2] に制限されるが。
さてここで、「自由」が量的に等価に交換されるならば、「自由」の"延長"によって「自由」の多様性を確保できるというメリットはあるものの、「自由」の"総量"は変わらないのではないかと思う人がいるかも知れない(図で言えば、二つの自由の"面積"が等価であるということ)。
しかし、ヒトがモノを交換するとき、必ずしも量的に等価交換を行うわけではないことを思い起こそう。ヒトは、比較的要らないモノを差し出して、比較的必要なモノと交換するだろう、需要と供給のバランスを取る比率で。自由の場合も当然そうであるから、経済学的な成果を応用しても良いと思う。自由な「自由」の交換は、参加するヒトすべての厚生を改善するだろう。
直接交換と間接交換
「自由」の交換は、直接行われることもあるし、間接的に行われることもある。
直接的な「自由」交換の例は、日本的な”恩義”の交換にもみられる(おそらく程度の差であって、諸外国でもあるものと思われる)。
一方、間接的な「自由」交換とは、一度「個人に帰属する自由」の一部または全部をある集団に預けて、その見返りとして「延長された自由」を受け取るという交換のことだ。
たとえば、ルソーはこれを"社会契約"として描いた。
われわれ各人は、われわれの"すべての"人格とすべての力を、一般意思の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとるものである。
先立っての殺人の例も、ルソーの論理では明快だ。「延長された自由」を安定的に保持するために、殺人の権利は社会へ召し上げられている。だから、殺人者は社会への反逆者であって、「生きる自由」≒「延長された自由」はもはや社会によって保証されない。故に、死刑にしても問題はない。
そこまで行かなくても、ある部族の倫理・規範の例を挙げてもよいだろう。
私はあなたにハウについて語ろう。 M.モース『社会学と人類学』より、マオリ族の賢者タマティ・ラナイピリ
ハウは吹きわたる風ではない。全くそんなものではない。
仮にあなたがあるタオンガ(≒贈り物)を持っていて、これを私に与えるとしよう。あなたはそれに価格をつけないで、それを私に与えるのである。このことに関して我々二人は値段交渉をしない。
ところで、私はこの物を第三の人物に与えると、彼は一定の時間をおいて、ウトゥとして何かを返そうとするし、彼は私に何かのタオンガを与える。
ところで彼が私に与えるこのタオンガは、私があなたから受け取って、私が彼に与えたところのタオンガのハウである。私がこれらのタオンガの代わりに受け取ったタオンガを、私はあなたに返さなくてはならない。これらのタオンガが気に入るものであれ、気に入らないものであれ、私が自分のためにこれらのタオンガを手元にとどめることは正しいことではない。私はこれらをあなたに与えなくてはならない。なぜならばそれらは、あなたたが私に与えたタオンガのハウ(≒霊的な返済義務、呪い)であるからだ。
もし私が多くのタオンガを自分のために保存するならば、私に何か大変なことが起こるだろうし、死ぬことすらあるだろう。
このようなことがハウであり、個人所有のハウ、タオンガのハウ、森のハウである。
ハウについては、これで十分であろう。
マオリ族では、「自由」の交換の原理を"ハウ"と表現している。ここでは、日本の恩義のように交換が1体1の直接交換で完結しなくてもよい。そのかわり、「自由」を受け取った"負債"は必ず支払うこと、差し出された「自由」は必ず受け取ること、という単純な原理を守る必要がある。それさえ守っていれば、交換された"フローとしての「自由」"≒"ハウ"は部族の社会へ常に一定量流れ、漂い、イザというときはだれでもアクセスすることができる。
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面白いのは、どちらの例でも、"間接交換"には、規範・倫理、つまり"社会"のようなものが前提とされることだ。「延長された自由」を増すには、より成熟した社会が必要ということらしい。
人間の歴史は、自由拡大の歴史だと思う。それも、「延長された自由」のだ。家族、友人、部族、ムラ、クニ、都市国家、帝国、世界宗教といったものは、すべて「延長された自由」の"共通基盤"を形成するための機構であったのではないかと思う。ただ、それらの基盤は往々にして人々をタコツボに押し込めた「小さな社会」でもある。
その点イスラムはわかりやすくて、「イスラム教徒は仲良く取引汁!」「イスラム教徒からは利子とるな!」といいつつ、「異教徒は信用できんから取引すんな」的なことをコーランに書いてしまってたりする。
それに対抗するのは、個人的に勝手に「大きな社会」構想と呼んでいるもので、資本主義的なお付き合いの拡大は世界を平和にするという楽天的自由経済至上主義だ。こいつは、既存の「小さな社会」をことごとく破壊する"グローバリズム"とも底が繋がっている。僕はこの考えに親和的だけれども、あんまり「小さな社会」を軽視するのもウマくはないと思う。「小さな社会」というつっかえ棒を外しても、自由は破壊されない保証はあるだろうか。逆もまた然りで、「小さな社会」のような基礎基盤のない社会へ資本だけ注入しても、ほんとうの自由拡大になるのだろうか。
経済学にはかつてブリオニズム(重金主義)という考えがあった。豊かさは金属的な貨幣のことであるという考えだ。現代ではこれは完全な誤りとされている。では、豊かさとはなんだろうか。多分、ひつようなもの、いろんなものへアクセスできるかどうか、がそれに該当すると思うんだけど、それは蓄積された自由の基盤が最後にモノを言う。大地震が起こったあとに、北斗の拳のような世界が来るか、お互い助けあって切り抜ける社会が残るのか。そうことを飛び越えて、投資、投資でも一時的にはリターンがあるだろう。でも、長期的には? バブルが弾けるまでババ抜きを楽しんでいるだけではないのか? それはそれで現代のブリオにズムだと感じる。
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