- 2010-05-18 (火) 22:55
- 独り言
「社会的責任」とは
「社会的責任」とは、「社会的な期待に応える義務を負うということ」だと思う。
だから、「社会的責任」と追及するときは「社会的な期待」が存在すると仮定されているわけだけれども、それは往々にして怪しい。個人的なクレームに「社会的な期待」という皮をかぶせて、自己の要求を通そうとする人は少なくない。それはつまり、"モンスター○○"と呼ばれる人たちのことだ。
“アテに”されること
ただし、「社会的な期待」が明瞭に認められる場合もある。
たとえば、あるサービスが存在し、当初は無償で行われていたとする。それが有用で、かつ継続的に供給されていれば、やがてそれを"アテに"し基盤とした2次的、3次的サービスが生まれるだろう。事態がそこまで進展してから、急に1次的サービスの供給をやめたとしたら、必ず批難が巻き起こる。2次、3次サービスを破壊する行為に等しいからだ。
具体的な例を挙げれば、明日Twitterがなくなれば、困る人が大勢いる。その場合、仮にTwitterが無償で提供されていても、「社会的な期待」、「社会的責任」がないとは言えない。その程度は、当該サービスがどれだけの派生サービスの基盤になっているかに依存するだろうし、ほかのサービスとの代替性にも影響を受けるはずだ。
だから、あることを行うことに社会的責任が伴うかどうかは、その行為に対して金銭の授受があるかどうかにあまり関係しないと思う。いかに多くの人に"アテに"されているか、社会的な期待を背負っているかのほうが重大なのだ。
なので、フリーソフトを世に出すとき、ソースコードを添付して「社会的な期待」の一部をみんなに肩代わりしてもらうのは有効な方法のうちの一つだと思う。
「社会的責任」の報酬と、需給のミスマッチ
仮にあるサービスが「社会的責任」を負うというのならば、当然それに対する報酬がなくてはならない、と僕は思う。
フリーソフトウェア作家の場合、それには「社会的な評判(レピュテーション)」が相当すると思われるが、果たして彼がそれを望んでいるのかどうか。ここにすれ違いがあるような気がする。
己より出でたるは、己に反えるものなり[1]
仮にそれが望まぬ報酬である場合、「好きなものを作る、気に入らなければ使うな」という態度をとるの一つの在り方だと思う。ただ、その際に利用者側がどうやってサービスによる利便を受けた際に発生する"負債"[2] を返せばよいかという問題は残る。この"負債"を放置しておくと、作者に対する引け目やコンプレックスに成長したり、自分を守るために"負債"をもつという事実に対してあえて無関心になったりする。「使ってやっている」と思い込むことで自分を満足させるかもしれない。
そういったユーザーがもつ負の感情は、結局作者自身に返ってくる。もともとは、作者自身が受けるべきものを受けず、感情を堰き止めてしまったことに理由がある。与えられたものは受け取らねば、あとあと面倒くさい。
ごちゃごちゃしてきたのでまとめ
- 報酬を得ていないから「社会的責任」を負っていないとは必ずしも言えない。かりにサービスが無償提供されているとしても、ある一定の代替が難しい「社会的期待」を負っているならば、「社会的責任」は発生しうるし、むしろ「社会」が責任を強制する。
- 要求する側が個人的なクレームを「社会的期待」に転嫁するのは見苦しい。わしは好まない!
- オープンソース化は「社会的責任」を分散するのにいいやり方だと思う。
- 「好きなものを作る、気に入らなければ使うな」という自己完結した態度もありだが、行き過ぎるとユーザーに負の感情を芽生えさせるかもしれない。ある意味それは自業自得でもあるので、うまくユーザーの感情をガス抜きするのも自分にとって大事なことではないだろうか。
- 結論: コミュニケーションは難しい…
「夜フクロウ」事件に対する、個人的な感想。感情がうまく、ぐるぐると絶え間なく受け渡されている間は、世の中平和なんじゃないかなーとか、事件とはあまり関係のないことを感じた。
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