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サンデル教授の授業、わしも受けてみたい!…かも。

日曜日の晩、サンデル教授の授業を見てみたり。最近、共和主義に興味を持っているのですが、避けて通れない先生ですよね。避けてましたけどw スティーブ=ジョブズのプレゼンみたいで格好良かった…こんな講義をなさるんですね!

うちの大学では、こういうのなかったな。そもそも、教授と生徒が講義で会話を交わすことがそもそも少なかったり。若い依○先生なんかには、講義中にイビられたことはあったけど…(内職してたのでw

たぶん、入門的な内容だからだと思うけど、そんなに難しくはなく、むしろ日本の大学のほうが同じ時間に詰め込まれる知識量は多いんじゃないかな。でも、こうやって考える機会を与えられるのは、単に知識を与えられるより充実度が高いかもしれない。

サンデル先生の第一の問はこれ。

001

電車(だったっけ?)が高速で走っています。すると、前方の線路上に、5人の作業員の姿が!運転手は慌ててブレーキを掛けますが、ブレーキが壊れて作動しません。このままでは5人の死亡は確実。

しかし、運転手はふと、一本の待避線があるのに気づきます。待避線にも作業員がひとりいるのですが、そちらに進路を変えれば犠牲者はひとりで済みそうです。

あなたが運転手ならどうしますか?

僕だったら、そのまま突っ込むかなぁ。難しいところだけど。

なぜなら、そのまま5人を轢くのは「事故」で済むけど、待避線の一人を轢けば「殺人」になる可能性がある。この仮定では、5人は死ぬ「運命」にあったけれど、待避線の一人はそうじゃない。その「運命」を、当事者の同意を得ずに変えてしまうのは良くないと思う。

002

というのも、仮にその様子を作業員の奥さんたちが見ていたとする。

そのまま5人が轢かれれば、奥さんたちは電車の保守が行き届いていなかったことに大して怒りは感じても、運転士自身や待避線の作業員に怒りを感じるいわれはないと思う[1] 。作業員の奥さんの立場で言えば、事故は痛ましいし、少し引け目を感じるかもしれないけれど、それだけだ。

しかし、待避線の作業員が轢かれた場合、その奥さんはどう思うだろう。電車の保守不行き届きに加え、運転士に猛烈な怒りを感じるだろう。5人の作業員の奥さん方には感謝されるかもしれないが。

サンデル教授は、

  • そのまま突っ込む=定言的・無条件的基準
  • 待避線に突っ込む=功利的基準

と分類した。定言的というのはカントが言った言葉で、「誰もが賛成できるやり方をしろ」[2] という仮定無しでも普遍的でありうる、絶対的な道徳基準を指す。ここでは、"殺人は犯すな"という道徳律に無条件に従うことにあたる。

功利的というのはベンサムにはじまる思想で「最大多数の最大幸福」を目指す考えだ。つまり、5人死ぬより1人死ぬ方が、みんなの幸せは大きい(悲しみは小さい)。

僕の考え方は「定言的」に分類されるんだろうけど、なんか腑に落ちないところもある。というのも、個人的には自分の考えは功利的だと思っていたから。

人間というものは、自分で何とかしたうえで失敗したり、個人の力ではどうしようも無い災害にあったりした場合、つまり「運命である」と納得出来る場合には、あきらめが付くのではないだろうか。しかし、逆に誰かの恣意的な意思が介在している場合、つまり誰かの「気まぐれ」に翻弄された場合、絶対に納得できないと思う。

それを正当に評価した場合、必ずしも5人の命より1人の命を優先するのが「功利的」とは限らない気がする。怒りと悲しみの量で言えば、事故で死んだ5人より、殺された一人の方が重い場合もありうる。

だったら、自分が運転士の場合、できることは諦めずに電車を止める方法を考え尽くす意外にはないと思う。

ただ、ひとつ問題がある。「運命」が確定する瞬間の問題だ。

僕の場合、「運命」は仮定が提示された状況で決定したものとして考えている。仮定がそうであるので、それを受け入れたまでなのだけど…なかには、誰かが死んで結果が出た時点で初めて「運命」が確定すると考える人もいるかも知れない。その場合は、"待避線に突っ込む"選択肢に理論的正当性があるとおもう。どっちの「運命」も許容し[3] 、どちらかを選択しても道義的な責任を負わず、っ結果として確定した「運命」だけを比較するならば、5人死ぬより1人で済む方がよっぽどマシだ。

個人的には、この考えも充分にアリだと思う。

仮に、僕が運転士ではなく、あとから事故現場に来た新聞記者ならば、5人を轢き殺した運転士を責める記事を書くかもしれないし、犠牲者を1人でとどめた判断を支持する記事を書いたかもしれない。迫り来る「運命」の問題ではなく、事後的な判断の問題であれば、結果を量的に判断すると思う。

これは、

「運命」+「決断(意思)」=「結果」を問題にする (帰結主義)

と捉えるか、

「結果」-「運命」=「決断(意思)」を問題にする (過程主義)

と捉えるかにも繋がる気がする。「運命」を事前に変えられると信じるならば「結果」が重要になろうし、「運命」が変えられないものと信じるならばそれにどう立ち向かったかという「決断(意思)」を問題にするだろう。それもこれも、"運命がいつで確定するのか"によるような気がする。

一番いいのは、当事者全員が見ている前で、サイコロを振って決めることだろうか…。みんな納得してくださいってね。

今度続きも観てみようと思う。それにしても、人が死ぬ仮定の話で爆笑するなんて、おめーら不謹慎なんだよ!

  1. 運転士の判断に過失がなく、逆恨みもしないと仮定するが (*)
  2. 正確には「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」 (*)
  3. 待避線の作業員の奥さんはこのさい置いておく (*)
  • Byasi

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