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公 ⇔ 私 という対立軸

共和主義に触れる上で重要な対立軸だと思うのだけど、あんまり考えたことがなかった。

「私」の領域を重視するあり方としては、やはり「保守主義」が代表選手だろう。保守主義というのは、古きよき、"よき"かどうかはともかく、とにかく"古き"ものを守ろうとする態度のことだと僕は思っている。つまり、それは家族だったり、郷土だったり、伝統だったりするのだけど。

確かに、長く続いてきた規範にはそれなりの先人の経験が生きているから、無碍に否定すべきではない。ただ、完全に形骸化して害にしかならない規範も多く残っているから、その選別は必要だろう。「私」の領域の領域は、多くの場合古くて安定していて、同時に沈滞している。

一方、「公」の領域を重視するあり方としては、「共和主義」が挙げられる。共和主義では、共同体への貢献・献身など、無「私」の態度が重要視される。必ずしもそれは「私」の領域を無視するわけではないが、「私」の領域から「公」へ向かう"活動的な生活"[1] よしとし、「私」に閉じこもって我が利を貪ることを卑しむ[2] 。

ここまでは、「私」とその上に築かれた「公」という2つの区別を認めた立場といえる。しかし、その"区別"をそもそも認めないのが「理性主義(≒合理主義)」的なモノの見方であるように思う。

理性主義においては、ヒトは生まれや立場を問わず、等しく"理性"を備えていると捉えられる。なので、「公」「私」の区別は実は本質的なものではなく、その双方を貫く権利・義務の法則があると考える。理性主義が生んだのは「社会主義」であり「共産主義」であり、「経済合理主義」であり「絶対自由主義(リバタリアニズム)」だ。つまり、近代以降の思想は、多かれ少なかれ理性主義の産物だと言える。

理性主義的なモノの見方は、人々の所属するさまざまな「私的領域」を、区別なく一色に塗りつぶし[3] 、同時にその上に築かれた「公的領域」を揺るがす。だから、「保守主義」なヒトも、「共和主義」なヒトも、「理性主義」(とその派生思想)には懐疑的であったり、時には抵抗感を覚える。

「共和主義」は「保守主義」よりもほんの少し理性的だったが、それを推し進めた結果[4] 、「理性主義」というバケモノを産み出し、その結果打ち破られた。ちょっと皮肉な話ではないかな、と思う。

では、「共和主義」「保守主義」が力を取り戻すにはどうすればよいのだろうか。ひとつの方法は、「経済」の法則を逆手にとることで、それがネオコンとかなんとか言うもののようなそんな把握。

  1. 多くの場合、それは政治への参加と同義だ (*)
  2. この点で、「経済」≒「奢侈」は私的で公を破壊するものだ。それが公的なものと認められるには、「経済」≒「社会的分業」であり、むしろ公的に善い作用を及ぼすとする古典派経済学が世に認められる必要があった (*)
  3. グローバリズムというやつだ (*)
  4. 中世に一度失われたが取り戻して発展させたといったほうが正確か (*)
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