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ぽえむ Archive
「公共なるもの」とハウ
「公共なるもの」 の続き。目に見える・見えないを問わず、公共なるものがたくさん蓄積された社会は豊かなんじゃないかなーというお話。
たとえば、「情けは人のためならず」という。
人に親切にすることは、回りまわって自分に帰ってくるのであり、あなた自身のためなのですよ――という意味だと思うのだけど、こういう"情け"が多く蓄積された社会は良い社会だろう。
仮に、僕が電車で老人に席を譲るとする。老人に情けを贈与したわけだ。老人はきっと、別の形で僕のような若者に親切にしてくれるに違いない。それはたぶん僕直接にはないだろうけれど、その若者はきっと他の人にも"情け"を譲与するんじゃないだろうか。つまり…
上の漸化式のような、最初に誰かが無償で贈与した"情け"(x)を、そのまま・無限に伝えていける構造(a(n)=a(n-1))があれば、その"情け"は贈与者の寿命や肉体的制限を乗り越えて、永遠に続いていくはずだ。
このような仕組みを、「ハウ」と表現して定式化したのがマオリ族のこの思想のように思う。
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「公共なるもの」
- 2010-03-06 (土)
- ぽえむ
実は、共和主義を勉強しつつも 、"res publica(公共なるもの)"の概念が「肉」として付いたかといえば、正直心もとない。けれど、人間が社会的に生きる上で「公共なるもの」「共通項」を多く持っている方が豊かであるらしい、というのは分かりかけているような気がする。
バラバラなものを共通化するというのは、より多くのモノを繋げていくのに必要なことだ。始皇帝は万人に[1] 等しく適用される"法"で中国を初めて統一した。次いで行ったのは、度量衡の統一、文字の統一、道幅の統一だった。彼の作った中国は以後の「中国」という概念のコアとなった。
物質・制度面だけではない。常識、儀礼、倫理、価値観、習慣などを等しくすることは、すなわち信用であり、人々をつなげる基盤になっている。「共通である」と感じられること、それ自体が人が繋がるハードルを大いに下げてくれる。最近では、ヤフオクや海外のWebサイトで買い物するときぐらいしか実感しなくなったが。
そういう「共通なるもの」を積み重ねていくことで、より多くの人、財やサービス、すなわち「可能性」と定常的に[2] 接続出来ている状態が、文明なのだなと思う。
社会的な人間は、ロビンソン・クルーソーよりも(原初的な)自由が制限されている。
けれど、人と繋がることによって「可能性」を増していて、その意味ではロビンソン・クルーソーなんかよりよっぽど自由だ。その基盤となっているものが"res publica"であり、それは共通なもの・公共なものの積み重ねで、アタリマエに利用されているけれど実はアタリマエのモノでは決してない、能動的な努力によって維持されている…らしい。
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空虚な(?)ベーシックインカム議論
- 2010-02-22 (月)
- ぽえむ
出演者の人が、先生とか作家とかタレントとか、趣味が仕事になってるような人ばっかりだったせいかもしれませんが、世の中には、みんなが嫌がるけど、社会のためには、誰かがやらなければいけない仕事ってのがいっぱいあるんですよね。
警察官とか消防署員みたいに、死ぬかもしれない仕事とか、介護や清掃局みたいな他人の排泄物を触らなきゃいけない仕事とか、救急医療のお医者さんみたいな、働きたくない時でも人の生死が自分の責任になる仕事とか、、、風俗産業とかとか、
“社会のためにイヤでも誰かがやらなければいけない仕事“とベーシック・インカムの間に緊張関係はあるだろうか。
ぱっと思いつくのは、ベーシック・インカムになれば"イヤな仕事"(固定的な需要)をやる人は少なくなる(供給が減少)するので、"イヤな仕事"の給料は上がるという「価格調整」が行われるということ。掃除夫は時給2,000円が当たり前になるかもしれないけど。
というわけで、次の論点。
# 嫌な仕事は給与があがるから、やる人はいるんだ!って話がありますが、
# 介護の仕事をする人が減って、月給50万とかだったら、
# 毎月7万で暮らしている老人は介護者を雇えないですよね?
確かに、「価格調整」された結果、価格が高くなりすぎることはありうる。しかし、逆に考えてみると、それは少しおかしい。本来"時給50万とか"のヒトを、今は"毎月7万で暮らしている老人"でもカンタンに利用できるほど、不当に[1] 安くこき使っているだけかもしれない。サービスを安く供給しようとするあまり、その片方で鬱病やカローシを量産していてはあまり意味がないと僕は思う。
それでも、安価 or 無償でのサービス提供が望ましいこともあるかもしれない。だったら、本当に突き詰めて真に重要なこと、誰もが同意できるほどアタリマエに公共性が認められる仕事については、「義務化」するのもありだと僕は思う。
具体的に言えば、介護が本当に公共の事業と認められるならば、年に何日かそれを賦役として行う。裁判員制度のように「くじ引き」(Demarchy)で決定するのもよいだろう。こうした義務は、権利の重さを確認するのにまたとない機会となるし、経験の幅が広がる[2] 。イヤだけど社会的に必要とされていることは、"社会"や"政府"にアウトソーシングしないことが、善い秩序を維持するのに役立つと僕は思う[3] 。
そんなこんなで、実際にやれば「神の手」+「義務化」でたいがい何とかなるんじゃないかなーと思っている。
もちろん、ベーシック・インカムの前にやるべきことは山積している。「免許」の在り方の見直し、「最低賃金」の撤廃、国民ID制度、社会保障制度の整理、自由な社会へのコンセンサス…その他もろもろ、前提とすべき法・制度・規範・慣習は数え上げればキリがない。
でも、負の所得税やベーシック・インカムが導入されれば、今よりも"自分の自由意思"と"自分の在り方"を一致させられる社会になるんじゃないかと思う。それがネトゲでも昼寝でも生産的活動でも、別に何でもいいんじゃないですかね。ひろゆき氏こそ、そうやって生きている人間だと思ってたので、BIに反対っぽいことには意外だった。
—
僕はBIの方がいいなーと思うけど、別にBIじゃなくてもいいやーと思ってる派。他人を説得して制度を変えるって、いろいろ面倒そうなんだものw
- 実質的には「働かないと食べていけないぞ」と脅迫して (*)
- 裁判員制度も体験した人の多くは色々と得るものがあったようだ。 【裁判員アンケート】「よい経験」98%、高い充実感浮き彫り – MSN産経ニュース (*)
- BIはただでさえ"生きること"の生な部分を外部化する制度なので何かで釣り合いをとった方がよいと思っている (*)
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社会は人を自由にする
- 2010-02-12 (金)
- ぽえむ
僕は社会主義者ではなく、自由主義者で、それはつまり個人主義ということでもある。けれど、「社会」の重要性はちゃんとわきまえているつもりだ。
さて、どこぞで
「無縁のままでも安心して死ねる社会を」
なんて言説をみた。一見素晴らしい意見に見えるけれど、実はこれ、フツーに考えておかしくないか。
社会とは「縁(≒つながり)」に他ならない。無縁とは、社会との繋がりを持たない状態だ。社会と"無縁"のまま死ぬのはよいが、その後始末は社会がやらなければいけないらしい。縁も無いの彼が安心して死ねるように。なんのこっちゃ、さっぱりわからん。孤島で自由気ままなロビンソン・クルーソーが、お墓の心配でもするのですかね。
社会は個人を自由にする。
ここでいう自由とは、可能性に近い[1] 。確かに、社会には個人の自由を限定して窮屈にする側面がある。けれど、僕たちが日ごろ享受している自由のほとんどすべては、社会が、とくに資本主義社会がもたらしてくれたものだ。
たとえば、お金を出せばほとんどなんでも買える。これは社会のおかげだ。
「お金のために働かなくてはいけないじゃないか」
「お金に縛られているじゃないか」
という人もいるだろう。けれど、そういう人に限ってロビンソン・クルーソーになる自由[2] を行使しないのは、お金に縛られた社会の方が、ロビンソン・クルーソーの孤島よりよっぽど自由に暮らせるからに違いない。
自分で採って獲って作って造る食う寝る、それだけで一日が終わってしまう生活なんて、僕はイヤだ。面倒な"縁"に繋がれてシブシブ働くのだとしても、週休二日をいただいてゴロゴロできる方がよっぽどいい。みんなだってそう思っているはず。
自由主義者・個人主義者は、社会をとかく機械的なものとみなしたり、そうあるべきだと思いがちだ。社会とは誰に対しても平等な制度で、個人の運命に干渉してはならない。僕だって、基本的にそう考える。死に際にボタンを押せば、"文化的最低限度の"葬式を挙げてもらえる権利を得られる、そんな社会も悪くない。
けれど、その一方で決して"縁"からは自由になることはできない。僕たちは、"縁"によって自由になったのだから。"縁"は機械的・自立的な存在ではありえない。どんなに優れたシステムを組み上げても、社会からは人間的な部分を排除しきれない。そして、人間は無縁な人間[3] のためにタダで働いたりしない。安心葬式システムには、税金がかかる。僕はそんな税金払うぐらいなら、今いる家族友人のために使うよ。
現在的な「自由」とは、「社会という怪物」の鱗に攀じ、羽を戴いて初めて得られるものだ。真の自由主義者ならば、それを忘れてはいけないと思う。そうでなければ、単なる「自己中心主義」なのではないかな。
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提言: 失業者を0にしよう
- 2010-01-22 (金)
- ぽえむ
現在の完全失業者数は330万人とのこと。一方、公務員(国家公務員・地方公務員)は全部合わせて400万人いるらしい。
ってことはだよ。
単純に計算すれば、全公務員の給料を半分にして、そこかわり公務員を倍に増やせば失業者は完全に解消できる。とくに地方ほど公務員の給与水準は平均よりも高く、職が安定していることの優位は高い。多少削ったとしても全く問題はない。高度に専門的な職以外は、勤務時間と給料を削ってもサービスの継続に支障はないだろう。
もちろん、人を雇うにはそのための固定費がかかるから、給料半額が即人員倍増に繋がるかと言えば、そうは問屋は降ろさない。けれど、早番・遅番のターンオーバー制、休日も公的サービスを供給するといった方向で雇用需要を作り出すのはありだと思う。
そんな役場ならば、景気がよくなれば自然と人は辞める。民間企業のほうが給料がよくなるだろうから。そうなれば役所も人手不足になるので、残った公務員の手取りは増える(早番しつつ休日出るなどすれば)。けれど、また不景気になれば、ワークシェアリングして給料はまた以前の水準に戻ることになる[1] 。
要は、公的な労働需要で失業者を吸収すればよいということ。
椅子をもっと細切れにして、フレキシブルに割り当てる(自由に応募して、くじ引きで決めればいいだろう)という形で、実質的に労賃を弾力的にすれば不可能ではない。そのためには、公的業務を効率化・一般化し、だれが就いてもすぐ馴染めるように簡略化・ルール化する必要があるだろう。そしてそれはきっと、公的コストの削減にもつながる。
できれば、より多くの人が公務を体験し、その内容を内部化することは、健全な「市民」育成にもつながると思う。苦労を知っていれば、役所で公務員をアゴで使うような人もいなくなるでしょうよ。あれは見ていて気持ちのいいモノじゃない。また、人材の出入りが激しければ、不正も起こりにくくなる。いろいろと、一石○鳥でよろしい。
—
2/3は冗談、残りは結構真剣だ。
- むろん、その場合は公務員の副業を認めるべきだ。不況が生活を直撃するなら、公務員だって「自分の力」で不況に立ち向かう手段を持つ権利がある (*)
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灰色の魔女の視座
- 2009-12-18 (金)
- ぽえむ
中学校の頃、『ロードス島戦記』というラノベが流行っていて、僕も読んだものだった。影響されて、テーブルトークRPGにハマったりもした。TRPGってのは、みんなで集まってしゃべりながらサイコロを転がすゲームだ。一人のゲームマスターがいて、ヤツが語る物語に乗っかりながら、キャラになりきってゲームを進める。わしは、"ドワーフの神官戦士"の役柄が好きだった。なにせマルチ・ユーティリティーで、武器も魔法もそこそこ使える、FFでいえば赤魔導士のようなご都合の極めてよろしいキャラだったからだ。
それはともかく。
ロードス島戦記がおもしろいのは、主人公だけでなく、敵役もそれなりに主張に筋が通っていて格好いいところ。そしてなにより、サブタイトルにもなっている「灰色の魔女」というトリックスター(?)の存在にある。
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ちょっと思い出したので。
- 2009-12-16 (水)
- ぽえむ
Mother hippo and calf on Flickr – Photo Sharing!
月並み?だが、自分が養子だった事。
高校の修学旅行でパスポートが必要になり、戸籍謄本を取った時に愕然とした。
その日は何も手に付かず、夕飯で両親が揃った時、思い切って問いただした。
思い出話。
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[メモ] 自動販売機はネコババしない
結局のところ、生活基盤の安定性は有形無形の"資産(ストック)"の大きさに依存しており、資産Sの形成には、収入Yと支出Cの能力に依存している。そしてこれらは、社会的環境と個人的能力の二つに依存する。
たとえば、上の式において 所得Y は基本的に個人の能力に依存するけれど、上限と下限および限界収益は社会的な規範に大きな影響を受けている。また、消費C は衣食住にかかわる基本財的な部分は社会的に決定された物価水準に、娯楽や趣味・教育などに関わる投資は個人の意思・節制・展望に大きく左右される。
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[メモ] 貨幣≠流動性、貨幣∈流動性
基本的なことなのに、難しい。僕にもあまりよくわかんない。
経済学における流動性(英: Market Liquidity)は、交易上の商品などの資産が、いかに容易に交換できるかを示す性質を言う。貨幣経済が主流となった今日では、貨幣そのものをさす場合もある。
確かに貨幣とは流動性のことだ。けれど、流動性が常に貨幣であるとは限らない。
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