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独り言 Archive

いつも心のなかにジャスティスを

Courtroom detail 

広島市南区のマツダ本社工場に22日朝、乗用車が侵入し、男性従業員を次々とはねて1人が死亡、10人が重軽傷を負った事件で、殺人未遂容疑などで現行犯逮捕された広島市安佐南区上安、元マツダ期間社員引寺ひきじ利明容疑者(42)が県警の調べに、動機について「マツダに恨みがあった。(17人が殺傷された)秋葉原事件のように、包丁でむちゃくちゃにしてやろうと思った。車を止めて包丁を振り回すつもりだった」と供述していることがわかった。

マツダ11人死傷「秋葉原のようにする」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

仮に社会のあり方・会社の仕打ちに問題があるとして、それが無差別にヒトを殺す正当な理由になるだろうか?

@masason そうしないと利益が出ない仕組みだから仕方なくやってるのに悪人扱いですか?頭金設定しなくてもいいような手数料設定がされてればどこの店も頭金なんて取らないよ。

Togetter – まとめ「ソフトバンクの闇、ソフトバンク代理店の怒り」

仮にソフトバンクのやり方に問題があるとして、それが自分の顧客に虚偽の説明をする正当な理由になるだろうか?

世の中には、自分の力だけにはどうにもならないこと(≒「運命」)で満ち溢れている。だから、絶望に駆られるときや、小手先で問題を取り繕って逃げたいときだってあるかもしれない。けれど、そういう弱いキモチと立ち向かっているその瞬間だけが、人間にとって真に「自由」な時間だ。心のなかにジャスティスをもつ人間だけが、自由でいられる。

自由でない人間に、世の中の何を変えられるというのか? 世の中を変えられなければ、一生「運命」の鎖につながれて生きるというのに。

ワガママな女の子について

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Cat Soccer-05 on Flickr – Photo Sharing!

ワガママでもモテてしまう女の子というものは珍しくない。女の子の中には、なぜそんなヤツがモテるのか不思議に思う子も多いのではないだろうか。「オトコってバカだよね!」

でも、ワガママならばモテるかというとそうでもないように思う。そこんところを履き違えて、見かけだけワガママをマネてしまうと「勘違い」「痛い」という評価を頂戴してしまう。実際「アイツはわざとらしくて面倒なんだよな」という話はしたことがある。

では、両者の違いはどこにあるのだろうか。

これは個人的な見解に過ぎないのだけど、ワガママに「スジ」が通っているかどうかによると思う。少なくとも、僕がウザいと思う場合とカワイイと思う場合の違いはココにある。

要は、モテる「ワガママ」と単なる「キマグレ」は似てるようで違うということ。

スジの通ったワガママには解決策が提示できる。多少のフェイントはあっても、答えがあれば問題を解く楽しみがある。仮に間違っていたとしても、スジが通っていれば納得がいく。スジが気に入らなければ、すっぱり諦められる。

けれど、キマグレに振り回されるのは苦痛でしかない。相手の行動に対するリアクションが正解かどうかは、相手のキマグレが決める。これでは、自分の行動が相手に支配されているのと変わらない。自分と相手に支配・被支配の関係があるのは、不幸だと僕は思う。長続きするわけがない。

ふと、昔を思い出して、文章にしてみた。僕も悪かった気がする。

モノをどこでも同じ価格で売らないのは不正義か

ガジェット通信の記事が一番事態を把握しやすいだろう。

http://getnews.jp/archives/64049
http://getnews.jp/archives/63960

問題としては、「"頭金"という説明の仕方が詐欺に等しい」「正規店と代理店の区別がつきにくい」というのはあるが、それとは別に「同じものなのに売る場所で価格が違うのは納得がいかない」という意見もちらほら見られる。いつから世の中そうなったのかな……

『これから「正義」の話をしよう』でも、ハリケーン直後に物価が高くなることが正義か?という問題が挙げられていた[1] が、iPhone の値段が場所によって違うのはそれと同様であるとも言いたいようだ。

個人的な意見を言わせてもらえば、価格というのはつける人の勝手であると思うのだけど。そして、それを受け入れるか受け入れないかも購買者の自由だ。

確かに、生活にとって基礎的な財であれば、多少譲歩すべきだと思う(ハリケーン・カトリーナの場合には、基本財の価格吊り上げが問題になった)。けれど、今回の場合はぜいたく品、しかも"販売当日(あたり)に人より早く手に入れたい"という欲求であるに過ぎない。価格が同意できなければ、断ればいいだけの話じゃないか、と思う。僕はちゃんと正規のお店をネットで検索して探したし、一時ダウンしていたもののネットで予約した人も多い。それを差し置いて、自分の準備不足を誰かのせいにするのは見苦しいと思う。

安定した価格でモノが潤沢に供給されているということ自体はよいことだ。でも、それはアタリマエではないし、そうじゃないことが不正義であるわけではない。

  1. iPhone 4の問題が場所的問題であるが、これは時系列的問題だといえる (*)

消費税についての議論でちょっと気になったこと。

消費税をただ上げることには、問題がある。一時的に消費を冷え込ませること、および「逆進性」の問題だ。

消費の冷え込みは、わかりやすい。消費税は見た目の価格を引き上げるから、需要を減退させる。一方、逆進性とはいわゆる「累進課税」の逆のような意味で、貧乏人ほど負担が大きくなること。なぜかというと、貧乏人ほど食料などの"基礎的な生活"にかかるお金が所得に占める割合が大きいからだ[1] 。金持ちは使いたくなけりゃ貯金すればいいが、貧乏人は使わなければ死んでしまう…がそれには消費税が加えられる。必然的に、貧乏人の方が消費税が"相対的に"重く感じられる。消費税がとくに高齢者で不評なのは、年金で暮らす人たちがそういった問題をモロに直面するからでもある。

消費税の逆進性に対する対策として従来行われてきたのが、"段階的税率方式"とでも呼ぶ方法だ。

つまり、キャベツは5%だが、セスナには25%の消費税がかかるというように"商品に対して"税率を累進的に設定するのだ。そうすれば、消費に対する一種の「累進課税」となり、逆進性は緩和される。

この方法の問題は、あっさり言ってしまえば、面倒くさい。実際にはないが、仮にキャベツとセスナを両方扱う店があればどうだろう? 僕が店主なら、めんどうくせえ話だと思う。実際にはヨーロッパなどでは施行例があるから、やれないことはないのだろうが。

もうひとつのやり方としては、負の所得税やBIの考え方を応用した"事前補填方式"とでも呼ぶべき方法がある。

たとえば、月10万で生活している人がいたとして、消費税が0%から10%へ引き上げられるとする。生活水準を維持したければ、月に1万円収入を増やさなければならない。そこで、国が月に1万円、前もって給付してあげる。すると、その人は生活水準を維持しつつも、"実質的に"消費税が免除されているのと同じになる。

この方法の利点は、"商品にたいして"税率を累進的に設定するよりも圧倒的にシンプルであること。国民のID管理と給付体制の構築だけしてしまえば、納税者に制度上の負担はない。「子ども手当」などの制度にも応用可能だ。

また、何が"基礎的な生活"に必要な材であるか? という議論をすっとばすことができるのもよい。コメは必需だが、パンは贅沢だろうか? パンは必需だ、じゃぁ、ブリオッシュは? キリがない! 事前補填方式ならば、決めればいいのは消費税を免除する"基礎生活費"だけで、実際にその枠をどのように活用するかは本人に委ねることができる。

まぁ、でも、国民総背番号制+給付システムが先にないと絵に描いた餅なのだけど[2] 。給付の施行と消費税率引き上げを同時にやれば、税率引き上げ直後におこる消費の冷え込み問題もある程度防げる[3] と思うのだけどね。

  1. 消費性向が高い、と表現する (*)
  2. だから、この制度はとにかく早くやれっていつも思う。いろんな政策の基礎になるのに (*)
  3. 商売をやればわかるが、需給の波はやっかいだ。とくに、需要の急激な変化は黒字倒産を引き起こす (*)

勤勉の対価は誰が支払うのか。

写真

朝日新聞社が「日本のいまとこれから」をテーマに郵送方式による全国世論調査を実施したところ、「いまの日本は自信を失っている」とみる人が74%に達し、9割以上の人がこれからの日本に不安を感じていることがわかった。一方で、回復する底力があるとみる人が半数以上おり、日本の将来のあり方としては、経済的豊かさよりも「格差が小さい国」を求める意見が7割を占めた。

asahi.com(朝日新聞社):「日本は自信を失っている」74% 朝日新聞世論調査 – 政治

同調査によると、 "「経済的に豊かだが格差が大きい国」と「豊かさはさほどでないが格差の小さい国」のどちらを目指すかでは「格差が小さい国」73%が「豊かな国」17%を圧倒" するのだそうだ。

「豊かさ」をさほど求めていない癖に、将来「自信を回復する」と信じている。
自信の基盤は、往々にして豊かさであるのにも関わらず。
根拠なしに「自分はいつか大物になるんだ!」といってる無職ニートにようなものだ。

「勤勉に対する報酬」を要求する一方で、「格差」は拒否する。
格差の原因が、往々にして勤勉の多寡の結果であることには目をつぶっている。
もしくは、頑張っているのに結果が出ない己の無能に目をつぶっている。

"武士は食わねど高楊枝"風に「名誉ある衰退」としての「自信回復」を選び、貧乏を「平等」に分かち合えというのだろうか。それならそれでスジは通っている。

けれど、それは本人の自己満足に過ぎない。腹減り武家の子どもたちが、そんな自分の家、自分の親に誇りを感じるだろうか。毎日チャレンジしているが結果を得られないのではなく、表向き頑張ってるふりして給料日を指折り数えて日々を浪費するか、自分の無能を棚にあげて不平だけは一人前というのが実際のところであるのに。

あなた達の勤勉の対価は誰が支払うのか? 勤勉をマネタイズする企業だ。けれど、この20年間は、腐って淀んだ慣習と規範が、歴史ある企業を潰し、新しい企業家を潰し、新しい企画の芽を摘むだけの20年間だった。みんなは、少しずつ目減りするパイを食い散らかすだけで、パイが減っている事実には目をつぶっている[1] 。

そんなこんなの情けない有り様の結果が、「学級崩壊」から「ゆとり社員」「老人軽視」まで、若い世代でみられる秩序の乱れなんじゃないか。個々にいろんな理由はあるだろうけど、結局のところは、僕を含めた現役世代の甲斐性の無さ・不甲斐なさが原因の根底にある。結果とそれに伴なう権威に不足しているから、言葉に重みがなく、秩序を維持できない。

勤勉に対価を払えない連中が、勤勉を説く。

そこに今の日本の矛盾がある。

なによりそこを直視することから始めないといけないんじゃないかな。他人の財布が気になる性分は卑しい。隣の人が金儲けするのは結構なことじゃないか。足の引っ張り合いを「平等」と呼ぶのはやめないか? 今の気分はそんな感じ。

  1. その筆頭はマスメディアだろう (*)

サンデル教授の授業、わしも受けてみたい!…かも。

日曜日の晩、サンデル教授の授業を見てみたり。最近、共和主義に興味を持っているのですが、避けて通れない先生ですよね。避けてましたけどw スティーブ=ジョブズのプレゼンみたいで格好良かった…こんな講義をなさるんですね!

うちの大学では、こういうのなかったな。そもそも、教授と生徒が講義で会話を交わすことがそもそも少なかったり。若い依○先生なんかには、講義中にイビられたことはあったけど…(内職してたのでw

たぶん、入門的な内容だからだと思うけど、そんなに難しくはなく、むしろ日本の大学のほうが同じ時間に詰め込まれる知識量は多いんじゃないかな。でも、こうやって考える機会を与えられるのは、単に知識を与えられるより充実度が高いかもしれない。

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[メモ] Twitter について (1)

ちょっと Twitter について書く機会を得たので、なか卯で親子丼とうどんを食べながら、今一度良く考えてみた。ホントは『Twitter社会論』でも読んでから書くべきなんだろうけどあいにくそんな時間もないし、読む前に自分の考えを書いておくことも有用ではないかと思う。

Twitter の基本機能

まず、Twitter の基本機能をおさらいしてみる。

  1. 140字以内で書き込む(ツイート)
  2. 他の人のツイートを購読する(フォロー)
  3. 購読したツイートを一覧する(タイムライン)
  4. ツイートにたいして返事をする(リプライ)
  5. 印象に残った書き込みをお気に入りとして保存する(お気に入り)

当初備えていた機能はこれだけだったかと思う…が、改めて整理してみると、これだけでもかなり興味深い。

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[メモ] 社会的責任について

「社会的責任」とは

「社会的責任」とは、「社会的な期待に応える義務を負うということ」だと思う。

だから、「社会的責任」と追及するときは「社会的な期待」が存在すると仮定されているわけだけれども、それは往々にして怪しい。個人的なクレームに「社会的な期待」という皮をかぶせて、自己の要求を通そうとする人は少なくない。それはつまり、"モンスター○○"と呼ばれる人たちのことだ。

“アテに”されること

ただし、「社会的な期待」が明瞭に認められる場合もある。

たとえば、あるサービスが存在し、当初は無償で行われていたとする。それが有用で、かつ継続的に供給されていれば、やがてそれを"アテに"し基盤とした2次的、3次的サービスが生まれるだろう。事態がそこまで進展してから、急に1次的サービスの供給をやめたとしたら、必ず批難が巻き起こる。2次、3次サービスを破壊する行為に等しいからだ。

具体的な例を挙げれば、明日Twitterがなくなれば、困る人が大勢いる。その場合、仮にTwitterが無償で提供されていても、「社会的な期待」、「社会的責任」がないとは言えない。その程度は、当該サービスがどれだけの派生サービスの基盤になっているかに依存するだろうし、ほかのサービスとの代替性にも影響を受けるはずだ。

だから、あることを行うことに社会的責任が伴うかどうかは、その行為に対して金銭の授受があるかどうかにあまり関係しないと思う。いかに多くの人に"アテに"されているか、社会的な期待を背負っているかのほうが重大なのだ。

なので、フリーソフトを世に出すとき、ソースコードを添付して「社会的な期待」の一部をみんなに肩代わりしてもらうのは有効な方法のうちの一つだと思う。

「社会的責任」の報酬と、需給のミスマッチ

仮にあるサービスが「社会的責任」を負うというのならば、当然それに対する報酬がなくてはならない、と僕は思う。

フリーソフトウェア作家の場合、それには「社会的な評判(レピュテーション)」が相当すると思われるが、果たして彼がそれを望んでいるのかどうか。ここにすれ違いがあるような気がする。

己より出でたるは、己に反えるものなり[1]

仮にそれが望まぬ報酬である場合、「好きなものを作る、気に入らなければ使うな」という態度をとるの一つの在り方だと思う。ただ、その際に利用者側がどうやってサービスによる利便を受けた際に発生する"負債"[2] を返せばよいかという問題は残る。この"負債"を放置しておくと、作者に対する引け目やコンプレックスに成長したり、自分を守るために"負債"をもつという事実に対してあえて無関心になったりする。「使ってやっている」と思い込むことで自分を満足させるかもしれない。

そういったユーザーがもつ負の感情は、結局作者自身に返ってくる。もともとは、作者自身が受けるべきものを受けず、感情を堰き止めてしまったことに理由がある。与えられたものは受け取らねば、あとあと面倒くさい。

ごちゃごちゃしてきたのでまとめ

  • 報酬を得ていないから「社会的責任」を負っていないとは必ずしも言えない。かりにサービスが無償提供されているとしても、ある一定の代替が難しい「社会的期待」を負っているならば、「社会的責任」は発生しうるし、むしろ「社会」が責任を強制する。
  • 要求する側が個人的なクレームを「社会的期待」に転嫁するのは見苦しい。わしは好まない!
  • オープンソース化は「社会的責任」を分散するのにいいやり方だと思う。
  • 「好きなものを作る、気に入らなければ使うな」という自己完結した態度もありだが、行き過ぎるとユーザーに負の感情を芽生えさせるかもしれない。ある意味それは自業自得でもあるので、うまくユーザーの感情をガス抜きするのも自分にとって大事なことではないだろうか。
  • 結論: コミュニケーションは難しい…

「夜フクロウ」事件に対する、個人的な感想。感情がうまく、ぐるぐると絶え間なく受け渡されている間は、世の中平和なんじゃないかなーとか、事件とはあまり関係のないことを感じた。

  1. 『曾子』だっけかね? (*)
  2. 申し訳ないという気持ち。払えない詐欺 (*)

[メモ] 資本主義的精神 ≒ 企業者間の軍拡競争(?

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産業革命、およびそれを支えた資本主義的精神とはどのように興ったのか?

歴史的な事象の多くは、おそらく単なる偶然をきっかけとしている。けれど、前もって"お膳立て"が整っていなければ、"偶然"は"歴史的出来事"として実を結ばない。偶然は偶然として、お膳立ての方にも目を向けてみることは悪くはない。

さて、資本主義的精神(≒産業革命の精神的"お膳立て")の話になると必ず出てくるのが『プロ倫』。"プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていた"という物語だ。それはそれで一定の説得力をもつけれど、なんだかなーという気もする。禁欲は貯蓄、ひいては資本につながるし、儲ければ儲けるほど神様の救いの革新を得られるという説も確かにあった。けれど、「プロテスタント?なにそれ」的な国民だって、時代こそ遅れたとはいえちゃんと資本主義してるし、初期経済学のメッカ・フランスはカトリックの国だった。

個人的に一押しなのは、以下の説だ。

封建社会において、地主(≒貴族)は唯一の剰余取得者(「真の地代」)である。地主は働かないが、お腹いっぱい食べてなお余りある所得を得ている
その他の人間は、自分を再生産するに足るギリギリ、もしくはちょっとした利潤を足した分だけの所得を得るに過ぎない。

ところで、所得 = 消費 + 投資 であり、所得をより増大させようとすれば、投資へ振り分ける所得を増やさなければならない。
しかし、封建時代において、地主にはそのインセンティブはない。なぜなら、それをしなくても生きていけるから。確かに、まれに才能と気概を持つ人物がそれを行うこともあったが、それが何代も続くことは稀だった。

一方、その間にも、"企業者"は少ない利潤を蓄積して、投資へ回すだろう。なぜなら、彼らは地主より相対的に貧しく、それゆえ地主へのあこがれが強いからだ。"企業者"は最初、「真の地代」のおこぼれを預かりながら、ほそぼそと事業を延命させる存在に過ぎない。が、それでも"企業者"には"賃労働者"と違い、幾許かの利潤を手にし、それを蓄積することができる[1] 。やがて、それは大きく成長し地主階級を凌駕するだろう。

"企業者"は、やがて"地主"を凌駕する。しかし、"企業者"は決して利殖をやめない。なぜならば、利殖競争を降りることが、すなわち破滅を意味するからだ。「止まっていようと思えば、全力で走らなきゃいけないんだ[2] 」。

かくして、経済の表舞台は、のんきな有閑階級の気まぐれから、熾烈な企業者の軍拡戦争へと移行したのであります。

この説は少し気に入ったので、中世の都市なんかに興味が湧いてきた。和洋問わず。今度本を漁ってみよう。

これに加え、禁欲より富裕を肯定するマンデヴィル的な思想、啓蒙思想なんかも、カルヴィにズムにもおとらず、産業革命への流れを援護射撃したと言えると思う。それについてと、「真の地代」については、また今度メモる。

  1. むしろ、それを行うか行わないかが、"企業者"と"賃労働者"を分けているのかもしれない (*)
  2. http://ja.wikipedia.org/wiki/赤の女王仮説 (*)

[メモ] 「体制」について。

誤解を恐れずにバッサリ切り捨ててしまうならば、ウヨクは体制派で、サヨクは反体制派になるのだろう。けれど、どちらも「体制 ≒ 既存の権威・権力・規範・習慣・倫理」を軸に思考しているという意味で、同じ穴の狢だと思う。

ウヨクは「体制」の意義を過大評価しており、神聖視する傾向にある。
サヨクは「体制」の意義を過小評価しており、負の部分を強調し、変革を訴える。

しかし、この「体制」の存在をなかば無視する考えが、最近急速に支持を集めつつある。リバタリアニズムだ。

急進的なリバタリアニズムは、「個人」以外の社会単位を認めない。すべてを「個人」に還元し、「個人」の自由をいっそう増大させようとする。そこには「体制」への過大評価も過小評価もない。そもそも、彼らにとって「体制」は評価に値しない。

この「個人」主義は、ウヨクの愛する「体制」を骨抜きにし、サヨクからは"「体制」との闘争""進歩的"という看板を奪い去ってしまった。

個人的にはリバタリアニズムというものに共感を覚える。しかし、それにしても「体制」への評価が足りなさすぎるとも感じる[1] 。「自由 ≒ 個人の可能性」の多くは、「体制」という土台のもとに築かれているのに。

リバタリアニズムは、「個人の自由」と「善き体制への忠誠・愛」の両立を試みた"古典的共和主義"をいま一度振り返るべきだと思う。

  1. リバタリアニリズムの弱点は、分析の基準をもっぱら「個人」におく近代経済学の弱点とも完全に一致する (*)

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