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共和主義

[メモ] "可能性"の4つのドメイン

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昨日書き忘れたのは、”可能性(≒潜在能力)”は基礎的なモノから発展的なモノまで重層的に積み上げられているという事だった。

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[メモ] 共和主義な発想とは…?

共和主義ルネサンス―現代西欧思想の変貌
佐伯 啓思, 松原 隆一郎
NTT出版 ( 2007-07 )
ISBN: 9784757141599

共和主義は自由主義とも関連する。ナショナリズムとも関連する。共同体主義とも関連する。保守主義とも関連する。しかしまたそのいずれとも同一視できない。共和主義とは、むしろ、これらの多様な西欧思想の底流を形作っている大きな、しかし容易には把握しがたい思考の伝統ではないだろうか。

なんとなくわかってきたのは、共和主義というのは自由主義、ナショナリズム、共同体主義、保守主義…そういったモノとは同じ価値基準ではかれるものではないな、ということ。それが分かれば、もう少し把握しやすくなるような気がする。

簡単に言ってしまえば、共和主義とは

  • 共同体は永遠ではない、不断の努力がなければ崩壊してしまうモノという自覚
  • 共同体を支えるのは、個人の公共心であるという確信

の二つから成り立っている。その敵は、共同体を食いつぶす汚職、共同体から権利・利得を引き出すことに躍起になる個人、目まぐるしく変わる外的状況に対応できない硬直したシステムだ。共同体を権威とみなして盲従し、他を抑圧する行為も非共和主義的行為と言える。

いま『マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統 』を読んでいるのだけど、最初の部分がなかなか実感として理解できない。西洋的な思想のコンテクストを噛み砕けていない感じ。でも、普遍的な権威を盲信して自分をそれに近づけるのではなく(国家のイデアみたいなものはない)、個別的な行動に価値を置くのだと、生理解してみながら読み進めようかと思う。

大きな政府、小さな政府、シンプルな政府。

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一般的に、政府の大きい小さいは "予算規模" で区別される。けれど、ブログ界隈で議論される政府の大きい小さいの場合は必ずしも予算規模の話ではなく、政府を構成する組織・人員の大きさが焦点になっている場合が多い。

「小さな政府」を主張すると、(予算規模の話だととられて)「福祉の切り捨てだ」「弱者の切り捨てだ」「所得の再配分ができない、格差を増大させる」と言われたりするけれど、所得の再分配・福祉と(規模の意味で)小さな政府は両立可能だと思う。ただ、それは小さな政府というより「シンプルな政府」なんだと思うけれど。

たとえば、ベーシックインカムや負の所得税を導入して年金・保険・育児教育補助を根本的に整理しなおして厚生労働省の役割を1/5以下に縮小したら、それは予算的には「大きい政府」だけど、機能的には「小さな政府」であり、よって「シンプルな政府」だ。予算も機能も福祉もない"夜警国家"へ立ち返るのはやりすぎだと思うけれど、18世紀から積み上げた経済学的知見や計算機科学を活用すれば、規模を大きくせずに機能のみを伸ばした政府を実現するのも不可能ではないと思う。

複雑な政府では、みんなの目が届かないところでルールが悪用されたり、理不尽な運用がなされたりすることが多い。一方、シンプルな政府はシンプルであるがゆえに悪が露見しやすい。シンプルな政府は公正な政府により近い。シンプルであるがゆえに行き届かない部分は、"時限的な"例外を設けて対処すればよい。

政府機能は所詮必要悪だ。税金なんか払わずに済むのならばそうしたい。
しかし、それでは公共的な財やサービスの供給がなされず、長期的にみれば多くの可能性をコロしてしまう。だから、社会的ゆるやかな合意のもと、みんなの信頼の上に政府という機構を構築している。

しかしそこで、複雑で規模が大きいがゆえ政府のX非効率、機能不備、汚職が増大すれば、政府への信頼が揺らぎ、公共の仕組みとしての政府が支持されず、結局は破綻してしまう。だから、いつの時代もヒトは本能的な嗅覚として政府の汚職と無能を嫌悪し、公正な政府を求めている。

まぁ、あんまりよくわかってないんだけどさ。

なぜ自由主義は格差を生むのか – セカイ系権力の誕生 を読んで。

この言説では"自由主義が"格差を生んだとあるけど、本当にそうなんだろうか。

確かに自由主義経済は格差を広げる傾向にあるけれど、原始共産主義に格差がなかったとは言えない。最近読んだ『10万年の世界経済史』によれば、産業革命以前のより格差の少ない社会では、子供の間引き、疫病、戦争といったもので豊かさと人口のバランスを調整していたという。その構造が大きく壊れ、長い停滞から劇的な経済成長への移行期に、ヒューム(とその弟子、A・スミス)が生きた。

資本主義とは、貨幣を媒介に他人の生業を「機能化」する営みで、それは人々の可能性を大きく広げたけれど、その半面で生身としての他人を否定するようになった("他人"から見たら、マルクス的に言うと「疎外」されている状態になる)。

これまでの互酬的な経済では、相手は自分の中に内面化されていた。しかし、自由資本主義的な経済では、相手はカネの代わりにモノやサービスを引き渡す存在にすぎない。日頃は気のいいおじさんが、サービスを受け取る"客"の立場になるやいなや、横暴で非人間的な暴言を平気で吐くモンスターに豹変する、という場面にはよく出会う。

相手が内面化された社会では隣人は友人であり、格差(といった共通悪)は不公平なものとして嫌われる。けれど相手がマシーンであれば、格差(だけでなく共通悪全般)は気にも留められない。ピカピカのブランドブーツが、中国の出稼ぎの女の子の手で1つ1つ縫われている?デパートに並べば、そんな事情は消し飛んでしまう。

ヒュームやスミスが課題にしたのは、自由主義・資本主義経済を擁護する一方で、古典的共和主義的な手法で疎外化される他人・分裂する共同体をつなぎ合わせることだと思う。ヒューム・スミス~ハイエクの伝統は、市場を容認・支持しつつも、市場が破壊する"絆"を守ることも認識し、双方を両立させるシステムを設計することにある。

近代の自由主義経済は、基本的に「社会的信頼」の上に成り立っている という言説は正しいが、それは別に自由主義経済に由来するものではなく、原始共産経済(というものがあればだが)から連綿と、社会の基礎として息づいている。そして、それは社会主義だろうが、共産主義だろうが、これからずっと変わらない。よって、"自由主義経済は悪"の色眼鏡をはずして読めば、後半の文章も組織やネットワークのごく一般的な力学について述べているのだとわかる。もちろん、このような事態をヒューム・スミス~ハイエクが是とするわけはない。この"構造"は自由を阻害するものだとして批判するんじゃないかな。

まぁ、いろいろ誤読してると思うけど、適当に書き散らしてみた。多分、根っこのところでは"(自由主義的)資本主義"を止められるか、止められないかということに関しての見解の違いがあるんだろうな。僕は止められないと思うし、止められると思う人もいる。でも、やめたら自由主義経済がもたらした今現在の可能性はすべて失われてしまうんじゃないかと思うケド。

修身斉家治国平天下

修身斉家治国平天下という言葉がある。
自分の身を修め、家を斉(おさ)め、国を治め、そしてのち天下を安定させる。

(※斉は本来は、あわせるとか、同じにするとか、そんな感じの意味。国歌「斉」唱っていうでしょ。ここでは修・治と同じ意味にとして訓んだ。)

とあるブログを読んでいて、急にこの言葉を思い出した。高校の頃かな、世界史の授業で習ったと思うんだけど、僕は無学なせいで、今までコレを孔子言葉だと思いこんでいた。ほんとは『大学』にあるのだね。さすがに読んだことはない。

儒家といえば、礼を重視した多分に形式主義なイメージがあると思うけれど、決してそうではない。

質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、自然後君子

という言葉もあるように、中身と外見はつりあっているのが良く、さらに言うならば、どちらかというと中身が勝っているほうがいい(子曰、先進於禮樂野人也、後進於禮樂君子也、如用之、則吾從先進)と考えていた。孔子は中庸を目指しつつも少し内面にウェイトを置いたバランスの良い現実主義者だ。論語では、多分に言い訳・自己弁護の嫌いのある言葉も記されているが、現実的な判断は踏み外してはいない。

そういう意味で儒家と比較されるべきは、道家ではなく墨家だろう。墨子は徹頭徹尾理想主義者で、理想のためには自分の身をも戦場に投げ出した。『墨子』はほとんどまともなカタチで残っていないはずだが、それでも非攻・兼愛という言葉でその教えは知られている。

最初に何を書こうとしていたのか忘れたけど、まぁ、メモとして。
自分も助けられないのに、他人を助けようと叫ぶ人たちへの批判っぽいものを書こうとしていたのかもしれないけれど、いろいろ調べているうちにそれもどうでも良くなった。

修身斉家治国平天下 ― 最初に自分のこと。そこから家庭、国家、世界へ共感を広げていこうということなのかな。

僕たちはお互いにお互いを自由にしている。

Networking Photo by 50717872@N00

自分の自由(≒潜在的な能力)の一部は、他人の力に拠っている。
だとすれば、基本的に他人の自由の拡大は自分の自由の拡大にもつながるはずだ。
もちろん、100%そうであるとはいえないが。

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もう、無関係ではいられない。なぜなら、知ってしまったから

more from streets of Tehran #iranelection Photo by fhashemi

イラン大統領選後の抗議活動の盛り上がりと暴力的な鎮圧行動を世界が注視する中、テヘランにおけるさまざまな衝撃的画像がソーシャル・メディアを通じて外部に漏れ出している。これらは #iranelection というタグがついているものが多い。もともとTwitterのハッシュタグだったが、すぐにFlickrその他のサイトにも広がった。

ハッシュタグ #iranelection で見るイラン抗議行動の衝撃画像

Twitter を #iranelection タグで検索すれば、膨大な量の bit.ly リンクを見つけることができる。その先には、生々しいばかりの写真・ビデオで溢れ返っており、なかには正視に堪えないものも少なくない。

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[メモ] 自由について

自己責任論。というか、"自分に責任をくれ"論。

とあるブログで見かけたところによると、"知的な人たちや良識のある人たち"の間では、個人の貧困の問題が「自己責任」であるという議論は一蹴されているらしい。文章を読んでいくと、"知的な人たちや良識のある人たち"≒左派の人たちであるらしいが、思わず鼻で笑ってしまったわ。

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なにが"正しい"かだなんて。"どうするべきか"だなんて。

昔(大学生時代)、高校時代の友人と酒をのんだ。

たぶん日本でワールドカップがやっている時の話で、次の日は早稲田の建築学科(Shuさんが在籍していた)でみんな集まってプロジェクタを設置して、対トルコ戦をみたような、みなかったような、そんな記憶がある。ちなみに、ロシア戦は京都のバイト先で皿を洗いながら、その次の試合は東京のどこぞにあるスポーツ・パブで観戦した。

まぁ、そんなことはどうでもいい。

そいつは東大文Ⅰ→法学部に進んだのだけど、その日は確かそいつの下宿の本棚に並んでいたK・ポパーをネタに話をしていた気がする。『科学的発見の論理』だか、『開かれた世界~』だかは忘れた。その話も尽きて、「どうよ法学部?」という話に移った。するとやつは、「面白いよ。論理的だし」

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